松倉城
(まつくらじょう)

                   岐阜県高山市松倉町城山      


▲ 松倉城は飛騨平定を目指す三木氏の本城として築かれた。しかし、
本城としての期間は短く、わずか七年で落城、三木氏も滅び去っ
た。この画像は三の丸から見上げた本丸外曲輪の石垣である。

戦国非情の城

 天正七年(1579)、飛騨の王者たらんとする飛騨国司侍従姉小路大納言頼綱こと三木自綱(みつきよりつな)は飛騨南部にあった三木氏累代の居城桜洞城から新たに築いたここ松倉城にその本拠を移した。
 三木氏が姉小路(あねがこうじ)氏を名乗るようになったのは自綱の父良頼が姉小路氏を滅ぼしてその名跡を継いでからである。姉小路氏は南北朝時代に飛騨国司に任ぜられて以来、内紛を繰り返しながらも戦国時代に至っていた名家であった。三木氏はその名跡を継ぐことで官位官職を得、飛騨の支配者としての地位を不動のものとしたかったのであろう。ただし、自綱の大納言は自称である。
 三木自綱は、妻が斉藤道三の娘ということもあって織田信長とは友好関係にあったという。松倉城に移った自綱は実質的な天下人である信長を後ろ盾にして飛騨の平定を着実に進めた。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変。そして十月、織田と結ぶ三木氏によって圧迫され続けていた北飛騨の江馬輝盛が信長の死を好機として兵を向けてきたのである。輝盛率いる三千騎は大坂峠を越えて高山の北約9kmの八日町に迫った。
 自綱は籠城策を取らず、牛丸親正、小島時光ら二千の軍勢で松倉城を出陣して八日町に江馬勢を迎え撃った。戦いは数に勝る江馬勢優位に進み、輝盛自ら斬り込んでくるほどであったという。押され気味の三木方は伏兵に命じて手薄になった江馬本陣を衝かせた。これに驚いて馬首を返そうとした輝盛を三木方の銃弾が貫き、十七歳の牛丸又太郎が首を上げて戦いは決した。
 戦いに勝利した三木勢は北飛騨の江馬方の諸城を攻略して念願の飛騨平定を実現した。
 飛騨平定を成し遂げた自綱は続いて身内の粛清に手を付けた。そのやり方は非情そのものであったようだ。天正十一年(1583)、桜洞城主で嫡男の信綱を謀反の疑いありとして松倉城に呼び出して謀殺(天正七年ともいわれる)した。この年、鍋山城主で実弟である鍋山顕綱を刺客をもって殺害、顕綱に通じていたとする牛丸綱親を広瀬氏とともに攻め滅ぼした。続いて牛丸攻めを共にした広瀬宗城を松倉城に呼び出して謀殺、広瀬城を奪ってしまった。
 邪魔者を次々に消し去った自綱は松倉城を次男秀綱に譲り、広瀬城に隠居して気儘な暮らしを楽しんだが長くは続かなかった。
 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の討伐を受ける身となり、越前大野城主金森長近の軍勢が飛騨に攻め入った。瞬く間に飛騨の諸城を攻略した金森勢は広瀬城を落として自綱を追放、松倉城に迫った。

▲ 本丸外曲輪の石垣。手すりや柵は設けられてないので草の生い茂る季節は足元に要注意である。
 松倉城には城主秀綱と鍋山城を捨てて合流した弟季綱らが立て籠もって金森勢を迎え撃った。金森勢の中には三木氏との戦いで難を逃れた江馬、牛丸、広瀬の各氏が参陣していた。
 数日間激しい攻防戦が続いたが、城兵の藤瀬新蔵が金森方に内応して本丸屋形に火を放ったたため、ついに落城となった。秀綱は妻とわずかな供とともに城を落ちた。
 城を落ちた秀綱らは間道を東に向かい、信州を目指した。しかしながら国境の穂高山脈中尾峠(安房峠とも言われる)を越えたところで金銀に目の眩んだ野伏りに襲われ、あえない最期を遂げてしまった。
 落城後、松倉城は廃城となり、飛騨の主となった金森氏は高山城を築いて飛騨統治の城としたが、その築城に際して松倉城の石垣も石材として利用されたと言われている。
 ▲ 城址への登山道入り口。搦手からの登城道である。
▲ 松林の中を登山道が続く。

▲ 登山道をひたすら前進すると突然、石垣が眼前に現れる。

▲ 本丸東側の尾根を削平した二の丸。大きな岩が屹立している。

▲ 本丸外曲輪の石垣。

▲ 二の丸南側の隅櫓跡から見た三の丸石垣。

▲ 本丸跡。標高857mで高山盆地周辺の諸城のなかでは最高所にある。

▲ 本丸跡に建つ城址碑。

▲ 本丸跡から東を展望すると北アルプスの山並みが見える。その向こうは信州である。
----備考----
訪問年月日 2010年9月4日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

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