中尾生城
(なかびうじょう)

                 浜松市天竜区龍山町中日向      


▲ 中尾生城は県下でも有数な天険を利した要害堅固な城として知られている。
これは本曲輪東側に接する二の曲輪から本曲輪方向を見たものである。

弓矢を捨て、
       山野に生きる

 中尾生城、または中日向城とも書かれるこの山城は南北朝の争乱期に築かれたと言われ、両陣営に分かれた天野氏(犬居城)の南朝方(天野兵部権少輔)が拠ったものと思われる。

 その後、南北朝の争乱も静まり、この地域(大峰郷)は天野氏の支配下にあった。明応三年(1494)から始まる今川氏親の遠江進出に際しては、天野氏はこれに従っている。

 ところが氏親の後の氏輝の代になると天野氏は今川氏と争うようになる。経緯は分からないが、今川方が天野領に攻め入って大峰郷と中尾生城を占拠したのである。

 この時に今川氏が中尾生城の城主とした武将として二俣近江守(享禄二・三年/1529-30頃在城)と匂坂長能(匂坂城主、天文四年/1535入城)の名が伝えられている。

 今川氏が氏輝から義元の代に替わると、天野氏は再びその配下に属して今川軍団の一翼を担って各地を転戦している。

 その後、永禄三年(1560)の桶狭間合戦を境に今川氏の衰退が著しくなり、代わって北遠の地には信州方面から武田氏の力が、また三河方面からは徳川氏の影響が浸透してくるようになった。

 北遠の国人奥山氏は今川、徳川、武田の間にあって一族間で敵対、内紛状態となっていったのである。武田を後ろ楯にした水巻城主奥山美濃守定茂は一族兄弟の城を次々と攻め落し、終には奥山氏の本城高根城をも攻め落してしまった。

 永禄十年(1567)、中尾生城主としてやってくることになる奥山兵部丞定友は奥山四兄弟の末っ子として小川城(佐久間町)の主であった。それが先述のように次男美濃守定茂によって城を追われ、犬居城の天野氏のもとに身を寄せていたのである。

 そこへ中尾生城の再構築の命が今川氏真から定友とその子左近将監友久に下ったのである。三河からの徳川勢の進攻に備えるためである。

 定友らは木を切り倒し、汗を流して普請に精を出した。その間に遠江の様相はめまぐるしく変化してゆく。永禄十二年(1569)、今川氏が滅ぶと天野氏は徳川氏に従った。

 定友も大勢に従って徳川氏に付いた。この年、徳川家康から安堵状が届いた。しかしそこに記された所領はかつての小川城に居た頃の土地であった。空手形である。

 元亀二年(1571)、北遠の様相は一変する。信州方面より武田信玄の調略によって天野氏が武田方に鞍替えしたのである。翌年、信玄率いる武田の大軍が青崩峠から北遠に進攻して徳川方の二俣城へ殺到した。この先導約を務めたのが高根城を奪い取った美濃守定茂(奥山四兄弟の祖父大膳亮とも言われている)であった。中尾生城の定友、友久父子も武田の先陣に立たされて出陣したものと思われる。生き残るためには拒むことなど許されることではなかったのだ。

 元亀四年(1573)、信玄が病没した。この後、家康による天野氏攻撃がはじまり、天正四年(1576)に天野氏と奥山氏は北遠の地を捨てて甲斐に逃走した。

 この時、中尾生城の奥山父子は徳川方に降伏したと思われるがその後のことは伝わっていない。

 骨肉が争い、寝返りが日常的となり、また虚妄がまかり通るのが武家というものであるならば、
「弓矢を捨てよう」
 定友は、木を切り、土を耕して汗することの方が人間らしいと思ったに違いない。


城山南側に対する山腹から展望した中尾生城の全景。中央右側の山頂が本曲輪跡であり、左の高所は出曲輪跡であろう。(2005/2撮影)

▲登山途中から眺めた北遠の山並。
 ▲ 「城山稲荷登山口」の案内板。ここから登城開始である。他にも登城口があるようだが、ここが短時間で楽に登城できると思われる。
▲ 本曲輪の西側に設けられた空堀跡。登山者はこの空堀跡を通って二の曲輪に出る。

▲ 本曲輪跡。右の建物は城山稲荷。立ち木がなければすばらしい展望のはずである。
----備考----
訪問年月日 2010年5月4日
主要参考資料 「龍山村史」他