犬居城
(いぬいじょう)

県指定史跡

                浜松市天竜区春野町犬居        


▲ 道路正面の山が城址である。別名、鐘懸城あるいは鞍掛城という。宝暦二年(1753)
四月、役の行者の石像を安置して行場としたことから行者山と呼ばれている。

周北戦国時代の
         終焉

 戦国時代の天野氏は、伊豆からここへ移ってきた周防七郎左衛門尉経顕から二百数十年、国人領主として周北に覇をとなえていた。

 天野氏がここ山香荘の地頭となったのは鎌倉時代のことであったが、それは代官を派遣していただけのことであった。経顕が実際に居館を構える事になったのは南北朝の争乱がきっかけであった。経顕は南朝方の武将として現地支配のためにやってきたのである。

 概して遠州地方は南朝に与する武将が多く、引佐の井伊氏や水窪の奥山氏などは南朝方の皇子を擁して戦い続けたつわものたちであった。

 経顕も子経政とともに新田義貞の軍に身を投じ、北朝軍との戦いに参加している。その後も宗良親王の皇子興良親王を奉じて戦い続けたのである。

 しかし時の流れとともに南朝方の退勢は誰の目にも明らかとなり、天野氏一族内でも領地存続のためにはその方針の転換もやむなしというように変化しつつあった。すなわち、惣領家は北朝方に転じ、庶子家は南朝方に残るということになったのである。

 やがて南北朝の争いも昔日のこととなり、室町幕府による全国支配とともに天野氏は国人領主として成長していった。殊に斯波氏が守護であった時期、すなわち十五世紀頃は守護による実行支配が弱い時期で、天野氏は独自の発展を遂げることができたといってよい。

 明応二年(1493)、天野氏の開基によって犬居城下気田川の対岸に瑞雲院が建立されている。この頃が天野氏の全盛期であったようだ。

 十六世紀に入ると隣国駿河の今川氏親による遠江進出が盛んになり、天野氏はこれに服属するようになった。とはいえ天野氏が完全に今川氏に信服していたわけではない。氏親の次の氏輝の時には背いているのである。

 天文六年(1537)、今川義元の代になると天野氏はこれに従い、今川家の忠実な家臣となり、周北の支配を堅実なものとしていった。

 しかし、その安定した支配も永禄三年(1560)の桶狭間合戦による今川方の大敗によって不安定なものとなってゆくのである。

 永禄十一年、徳川家康による遠江進出に際して惣領天野藤秀は今川氏真を見限り、徳川に従うことにした。

 これと同時に武田氏による誘降も水面下で執拗に続き、ついに藤秀は武田に属することを決したのであった。元亀三年(1572)、武田信玄率いる二万五千の大軍を信濃・遠江国境の青崩峠に出迎え、その道案内をつとめた。
「これでわが領内も落ち着く」
 藤秀はほっとしていたことであろう。犬居城も武田流に改造された。

 天正二年(1574)、徳川勢の攻撃を受けたが、この時は天候と地の利を得た天野軍の完勝であった。

 されど運命の歯車は天野氏を見捨て、徳川家康を軸にして回ってゆくことになる。天正四年、徳川勢による再征は天野氏の支城砦を落としながら犬居城に迫ってきた。滅亡か逃亡か、藤秀は逃亡を選択した。藤秀一行は犬居城を脱出して勝坂城に入り、ここで最後の抵抗を試みた後、信濃へと落ちて行った。

 青崩峠に立った藤秀は、
「ここで信玄を出迎えたのは間違っていたのであろうか。いや、あの時はそうせざるをえなかったのだ」
 自問自答しながら遠江の山並に別れを告げた。

 甲斐に逃れた天野氏は天正十年、武田氏の滅亡によって今度は小田原の北条氏のもとへ身を寄せた。

 天正十八年、その北条氏も豊臣秀吉によって滅びてしまった。

 その後の天野氏の行方はわからない。

 ただ、周北の山中に捨て去られた犬居の城跡だけが、今でも静かに天野氏の帰りを待っているのである。

二之曲輪から本郭へ通じる路。現在本郭には展望台が設けられている。

▲城址本郭の展望台から南側を俯瞰する。

▲犬居城下気田川の対岸にある若身城山。犬居城の死角を補う物見砦である。

▲天野氏の墓のある瑞雲院の山門。

▲犬居城主天野氏之墓。
----備考----
訪問年月日 2004年6月27日
主要参考資料 「日本城郭全集」他