勝坂城
(かつさかじょう)

                 浜松市天竜区春野町豊岡        

勝坂城
▲ 鬱蒼と茂る樹木に覆われた城址。現在、県道389号線によって城山は分断されている。
  手前の赤い橋は気田川に架かる県道である。橋の向うに城址説明板が立てられている。

落ち行く
      一族

 天正四年(1576)夏、徳川家康による二度目の天野氏討伐がはじまった。

 本拠地犬居城で徳川勢来襲の報せを受けた当主天野藤秀と嫡男景貫は直ちに兵を集め、城の守りを固めた。
「なあに、また返り討ちにしてくれるわ」
 藤秀と景貫は二年前の戦いで家康軍をさんざんに打ち負かしたことを思い起こし、当面は徳川勢の動向を見守った。

 ところが家康は犬居城ではなく支城である樽山城へと兵を進めたのである。支城を潰し、本城を孤立させるのが狙いである。

 天野方としては、城外における山岳戦であれば地の利を活かして勝つ自信はあった。しかし、樽山城を落とされては駿河からの武田の援軍が期待できなくなる。さらに勝坂城を落とされると信濃方面からの武田軍の通路が遮断されてしまう。

 予想通り、樽山城を落とした徳川勢は勝坂城へ向う動きをしめした。

 勝坂城は天野氏領域の北端に位置する支城である。ここを失えば身動きできなくなる。
「勝坂へ移り、徳川を迎え撃つ」
 藤秀は一族ともども兵を率いて勝坂城へ急いだ。本拠地犬居城を捨てたのである。

 勝坂城は気田川が大きく湾曲して三方向をその流れが囲んでいる要害である。藤秀は勝坂へ向う途上、各所に伏兵を配した。

 その日、勝坂の入り口である潮見坂で両軍が激突、激戦が繰り広げられた。やがて、味方壊滅の報が勝坂城の藤秀のもとへ告げられた。
「このまま滅びては御先祖に顔向けできぬ。再び犬居の地を踏むまでは」
 藤秀は甲州へ落ちのびて再起を期することにした。

 藤秀と景貫は一族とともに青崩峠を越えて信州へと落ちて行った。

 その後、藤秀の願いも空しく、天野氏が再び遠江の地に戻ることはなかった。


気田川から見上げた城址。つわものたちはこの山峡の地で何を思い、戦ったのであろうか。

▲道路沿いに立つ説明板。
----備考----
訪問年月日 2004年6月27日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他