たるやまじょう
(たるやまじょう)

               浜松市天竜区春野町田河内        

樽山城址
▲ 正面に見えるのは城址説明板で、その背後が城山である。
山頂までは急峻な斜面を登らなければならない。

周北にこだまする
        つわものの雄叫び

 天正四年(1576)七月、天方(現・森町)方面に集結を終えた徳川勢は天野氏攻略のために進撃を開始した。
 一方の天方勢も臨戦態勢にぬかりはない。ここ樽山城には天野助兵衛、天野美濃守らが詰めていた。
 この城は天野氏領域の東端に位置し、川根方面を通じて武田方との連絡を維持する重要な役割を担っていた。たとえ、天野氏の本拠である犬居城が攻囲されてもこの城が健在であれば武田勢の後詰が可能となるのである。
 ところが、徳川勢は犬居城へは向わずに三倉から花島を経て樽山城へと進んできたのである。徳川勢は二年前に犬居を攻めて敗退したのに懲り、今度は支城を先に潰して犬居城を孤立させる戦略で出てきたのである。
 樽山城の城兵は色めいた。
「ここを取られては一大事」
 天野助兵衛は声を枯らして督戦した。
 しかし兵力の差はいかんともし難く、
「全軍、勝坂城に集結すべし」
 との惣領天野藤秀の指示により城兵は城を脱した。
 天野氏滅亡の序曲であった。
 樽山城を落とした徳川勢は天野氏のとどめを刺すべく勝坂城へと追撃を続け、ついに天野一族を周北の地から追い出してしまったのである。
 その後、樽山城には安部大蔵元真(今川旧臣)、三倉久右衛門定次(三倉城主)らが城番となり、武田勢の来襲に備えた。
 数年後、武田勢一万余が攻めてきたが、三倉ら城兵たちの必死の防戦によりこれを撃退した。三倉久右衛門はこの功により川根に百五十貫文を加増されている。
堀切
▲ 本曲輪と二ノ曲輪を区切る堀切。
----備考----
画像の撮影時期*2004/07