小川城
(こがわじょう)

             浜松市天竜区佐久間町大井      


▲ 正面の三角形の山が城山である。山頂部は峯ノ平と呼ばれ、物見石という地名が残っている。

戦国非情、
      骨肉相食む

 永禄年間(1558〜)の初め頃か、北遠の国人奥山能登守定之(高根城主)の四男兵部丞定友はここ仙戸の地に城を築き、奥山領の南部地域に独立した。

 この四人兄弟はそれぞれ奥山領内を分割して城を築き、分立したのであった。長男民部少輔定益は父祖以来の高根城を継ぎ、次男美濃守定茂は中部に水巻城を、三男加賀守定吉は相月に若子城をそれぞれ築いて拠ったのである。

 永禄三年の桶狭間合戦以降の今川氏の衰退は奥山氏の内部に波乱を巻き起こすこととなった。

 兄弟のなかで最も野心に燃える次男定茂は密かに武田方に近づき、兄弟の領分を侵し取ろうとしたのである。

 伝えによれば祖父の奥山大膳亮がここ小川城へ攻め寄せたともあり、おそらくは定茂が兄弟の争いに祖父をも巻き込んだものと思われる。ちなみにこの時、四兄弟の父定之はすでに亡くなっている。

 永禄十一年、満を持した定茂は兵を小川城へ向けた。

 小川城では兵部丞定友とその子左近将監友久がこれを迎え撃ったものと思われるが、これがどのような戦いであったのかは伝えられてはいない。

 おそらくは城山の中腹にあった館が敵兵の手によって燃え上がるのを山上の城から見下ろしていたであろう。そして戦国の世の非情さに唇を噛んでいたに違いない。
「骨肉が争うなど、馬鹿げたことじゃ」
 定友は子友久と一族を引き連れ、尾根伝いに城を後にした。

 伝えでは犬居城の天野氏を頼って落ちて行ったという。

 後日、父子は今川氏の命により中尾生城の普請に赴いているが、翌十二年には徳川家康から旧領を安堵されており、徳川の麾下に従ったことがうかがえる。

 その後のことは詳らかでない。「遠江風土記伝」による奥山系譜には友久の子源左衛門が「井伊万千代殿に仕う」とある。万千代とは徳川四天王のひとり井伊直政のことである。しかし、定友、友久のことはその後の記録には出てこない。

 おそらく、弓矢を捨て、北遠の山中に土着したものとおもわれる。
----備考----
訪問年月日 2004年5月2日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他