たかねじょう
(たかねじょう)

             浜松市天竜区水窪町地頭方   


▲ 平成15年に復元された城址。全国でもめずらしい戦国山城の威容である。ただし、
 復元された城は奥山氏のものではなく、武田側によって改築された後のものである。

山峡の豪族、
         奥山氏の盛衰

 応永の中頃(1410頃)、奥山金吾正定則は南朝の皇子由機良(ゆきよし)親王(宗良(むねよし)親王の第二子尹良(ゆきよし)親王のことか)を奉じ、重畳たる山塊を踏み越えて大里(現・水窪町)の地に仮御所と政所を設けた。そして小畑(同町)に関所を置いて錦の御旗を掲げた。また、親王守護のために九頭郷(同町久頭合)に高根城を築いた。
 これが当城のはじまりである。
 しかし、宗良親王を迎えての遠江南朝(井伊氏)の争乱からすでに七十年以上が過ぎ、吉野朝も後亀山天皇をもって終焉していた。ときは室町幕府の時代へと変わっていた。奥山定則らは南党の落武者として人里から隔絶したこの山峡に安住の地を見つけたものといえようか。
 ちなみに定則は井伊氏の重臣奥山朝藤の子といわれている。朝藤は遠江南朝の牙城のひとつ千頭峯城を拠点にして北朝軍と熾烈な戦いを演じている。定則が南朝の遺臣としての矜持を保ち続けていたというのも首肯できるのである。
 さて由機良親王である。親王は十年余高根城に留まっていたが、その後三河に移ることになった。定則は嫡男大膳亮良茂に城の留守を任せ、応永三十一年(1424)八月十日に親王を警護して門谷経由で出発した。しかし、十五日に信州的場大野近くで野武士に襲われ、親王は自害されたのである。定則は弟因幡守共定とともに宮の首を高根城に持ち帰り祀ったといわれている。(「水窪町史/遠江国風土記伝」による)
 定則の後、良茂、能登守定之、民部少輔貞益と続いて、時は戦国の世へと移ってゆく。定則が当地へ来てから百六十年以上の歳月が流れ、南北朝のしがらみも遠い昔物語となっていった。
 戦国期の奥山氏は現在の水窪、佐久間、龍山の一帯を勢力下に置く国人領主となっていた。貞益の弟たちはそれぞれ山城を築いて自立の気運がたかく、次男美濃守定茂は水巻城を、三男加賀守定吉は若子城を、そして四男兵部丞定友は小川城を築いて拠っていた。大局的には北遠の入り口にあたる犬居城の天野氏を通じて今川氏に臣従していたが、山間のこともあって今川氏の威令も届きにくく、兄弟たちは互いに攻伐を繰り返したのである。
 なかでも、水巻城の美濃守定茂は兄弟の若子城、小川城を次々と攻め落し、次いで高根城を攻略して惣領家に取って代わろうとしていた。そこで、定茂は妹の嫁ぎ先でもある南信州和田城の遠山遠江守景広、土佐守父子を導き、ついに高根城を攻め落してしまった。惣領の民部少輔貞益の一族を滅ぼしてしまったのである。
 落城に際し、貞益の妻は金吾、庄司二人の子を抱きしめ、向市場前の川へ身を投げ自決したと伝えられている。現在、そこは赤子淵と呼ばれている。

▲ 復元された二の曲輪と三の曲輪。
 この落城の時期については諸記録によって一定していないが、発掘調査の結果によれば、「遠江国風土記伝」による永禄十二年(1569)の可能性が高いとみられている。まさに今川氏真が武田信玄によって駿河を追われ、徳川家康が遠江に進出した年である。武田は徳川に対する圧力を東と北から強めており、北からは犬居城主天野氏をその傘下においた。水巻城の定茂も武田方に属して先祖伝来の地を領したものと思われるが、諸記録錯綜して判然としない。
 いずれにせよ、高根城は武田の手によって改築され、その前哨拠点として利用されたことは遺構から明らかである。
 天正四年(1576)、犬居の天野氏が徳川に追われて甲州へ落ちたが、この年に水巻城の定茂一党も青崩峠を越えて信州へ落ちたと「奥山由緒」にある。
 このようにして、武田勢力の後退によってこの城は主を失ったかたちとなり、城としての幕を閉じることになったのである。

▲ 本曲輪跡の奥山氏四代の霊碑。

▲ 城址から展望する北遠の山並と水窪町の中心部。中央の水窪川に沿って国道152号線が北上している。この道は塩の道、秋葉街道、または信州街道と呼ばれる。

▲ 高根城の概略図。
----備考---- 
訪問年月日 2004年4月3日
過去画像追加 2011年11月7日