小長谷城
(こながやじょう)

                   静岡県榛原郡川根本町東藤川    


▲ 小長谷城跡は現在徳谷神社の境内地となっている。神社入口には城址標柱が立てられ
ている。鳥居の建つ所は枡形の虎口跡であったが、参道設置により改変されている。

駿遠境目の武田流城郭

 小長谷城は当地の土豪小長谷氏代々の居城であったと言われているがその詳細は不明である。
 城址の遺構(丸馬出し等)から見れば甲斐武田氏の手に成る城であったことは明らかであり、武田家臣となった駿河先方衆三浦右馬助員久が在城していたことも史料的に確認されている。時期的には天正三年(1575)以降の築城と推測されているようだ。
 問題は武田氏が小長谷氏の城を改修して築いたものなのか、あるいは新築したものであるのか、現在のところ明確ではないようである。
 永禄十一年(1568)の武田信玄による駿河進攻時に駿府の今川館において戦った今川方武士八名の中に小長谷氏の名が記されている(「甲陽軍鑑」)。この当時小長谷氏は今川氏の家臣であったが、今川氏が滅び、武田氏による駿河支配が進むにしたがって、小長谷氏は武田氏に従った。当主は小長谷長門守という。
 長門守の屋敷地は小長井(東藤川)集落の中心部に構えられていたといわれる(「本川根町史」)。この屋敷が平時の居館であり、小長谷城は非常時に立て籠もる詰の城であったと見ることもできよう。ただし、規模的には物見櫓を設けた程度の簡素なものであったかもしれない。
 武田の支配下に置かれた小長谷氏の事績は伝えられていないが、天正三年(1575)五月の長篠合戦で武田氏が大敗を喫して以降、小長井の地そのものが武田氏の注目するところとなるのである。この年八月には諏訪原城(島田市)が徳川家康に落とされ、遠江における武田方の重要拠点高天神城が孤立、徳川勢力は大井川にまで迫った。
 翌年には北遠江の犬居城主天野氏も徳川に追われ、小長井の地は武田方の最前線となってしまったのである。小長井は駿府へ通じる道とともに山伏峠を経て甲斐へ通じる道の起点でもあったのだ。
 武田氏による小長谷城の突貫工事が始まったのはこうした状況に対応したものであったことは間違いない。当然のことながら小長谷長門守以下集落を挙げてこの工事に関わったはずである。巨大な堀や土塁の構築に目を見張ったに違いない。
 やがて駿河先方の三浦右馬助が城将として守りに就いた。
 天正十年(1582)二月、家康は織田信長の武田討伐に呼応して駿河に進撃した。武田の諸城は次々に陥落、江尻城の穴山信君も徳川に降り、駿河の戦いは呆気なく終わった。

▲ 本丸東側(神社本殿裏)に残る堀と土塁。
 小長谷城に徳川勢が押し寄せ、激しい攻防戦が展開されたとは伝えられていない。おそらく、城兵の多くは逃散、残った長門守らも抵抗することなく徳川方に従ったものと思われる。
 長門守道友、天正十九年(1591)没。その子孫は旗本となったと伝えられている。そして長門守の弟加兵衛晴次(覚仙)が大井川筋二十七ヶ村の代官を務めた。
 その後、小長谷城は放置されていたが、元和五年(1619)に天王社が城址本丸に遷座再建され、徳谷神社となって現在に至っている。
 ▲ 元和五年(1619)に遷座再建された徳谷神社が本丸跡に建っている。
▲ 丸馬出し外側の三日月堀。武田流築城の特色を明確に残すものとして着目されている。

▲ 本丸東側に設けられた虎口は二重の堀と土塁や丸馬出しによって枡形が形成され、土橋は複雑に屈曲している。

▲ 本丸跡に立てられた案内板の城址略図。北が下向きに描かれている。

▲ 二の丸の土塁跡。右の低い方は三の丸である。

▲ 三の丸に残る井戸跡。

▲ 三の丸と二の丸の段差。本丸、二の丸、三の丸と緩い傾斜地形を利用して三段の郭で構成されている。

▲ 三の丸西側の堀。大手口である鳥居の横にあり五号堀と表示されている。

▲ 明治36年(1903)、址蹟の湮滅を恐れ、有志により神社本殿北側に建てられた石碑。
----備考----
訪問年月日 2010年5月15日
主要参考資料 「本川根町史」他

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