阿久比城
(あぐいじょう)

                   愛知県知多郡阿久比町卯坂          


▲ 阿久比城跡。現在は城山公園として市民散策の場となっている。

悲憤と無念の古城跡

 阿久比城、又は坂部城と呼ばれるこの城は国人久松氏歴代の居城であった。
 久松氏の先祖は菅原道真の孫雅規とされている。雅規は阿久比の領主として善政を敷き、村人からは時代を超えて慕われ続けたといわれている。
 雅規から十一代を経た長俊は後醍醐天皇に仕えて南朝方として戦った。さらに数代を経た定範は北朝足利方として活躍、子の道定も九州で南朝方と戦った。
 道定は戦功によって将軍義満より阿古屋庄(阿久比)七千貫を賜った。先祖の地を回復した道定は遠祖雅規が久松麿と呼ばれていたのに因み、久松氏を名乗った。道定の子孫は尾張守護斯波氏に仕えて知多郡の国人領主として成長していった。
 阿久比城の築城の時期はよく分からない。道定の九代目定益が明応三年(1494)に久松氏の菩提寺洞雲院(城址の北約300m)を創建しているが、その頃に築城されたとも言われている。または定益の子定義のときであったとも言われている。
 この頃には守護斯波氏や守護代(織田氏)に代わり織田信秀(信長の父)が尾張の実力者になっていた。定義は織田信秀に属していたと言われている。
 定義の後を継いだ俊勝は水野大膳(大高城)の娘を娶り、水野氏(刈谷城)と誼を通じた。この時に俊勝は一子を儲けた。信俊である。
 信俊の母はほどなく亡くなり、天文十五年(1546)に父俊勝は水野信元の妹お大(伝通院)を後方に迎えた。
 周知のごとく、お大の方は松平広忠に嫁して岡崎城で竹千代(徳川家康)を生み、その後離縁されていたのであった。
 お大の方は阿久比城で三男四女を儲けた。永禄三年(1560)、桶狭間合戦に際して竹千代こと松平元康(家康)が敵方の阿久比城を訪れ、三人の弟と対面したことはよく知られている。元康はこの時に三人の弟(康元、勝俊、定勝)に葵紋と松平姓を授けたという。
 永禄五年(1562)、俊勝は阿久比城を信俊に譲り、お大の方と三人の息子たちを連れて岡崎の元康のもとに移った。俊勝は三河平定戦に活躍、三人の息子たちは家康の異父弟として後に大名に出世した。
 ひとり阿久比城に残された信俊の心境はどのようなものであったのだろうか。
「時代がどのように変わろうとも、わしはこの先祖の地を守り続ける」
 生まれ育った土地を愛する真っ直ぐな武将の姿が想起される。
 信俊は水野氏や大野城(常滑市)の佐治氏とともに織田信長に属していた。
 天正三年(1575)、水野信元が武田に通じたとの佐久間信盛の讒言で殺された。水野氏の領地は佐久間信盛のものとなり、信俊は信盛の与力に配された。
 佐久間信盛は天正四年(1576)から天王寺砦に陣して石山本願寺攻めを担当した。

▲ 城山公園の南側に残る土塁跡。
 翌五年(1577)、信俊は佐久間軍団の一員として大坂に出陣した。
 この年七月、膠着状態の続く大坂の戦線で信俊は佐久間信盛から宗徒側に通じていると讒言され、信長から謀反の疑いをかけられた。信俊は身の潔白を示すため、四天王寺において切腹して果てた。まさに悲憤、無念の自害であったに違いない。
 信俊の切腹と同時に阿久比城には佐久間勢が攻め寄せ、家老坂部藤十郎らが善後策を講ずる間もなくことごとく討死、落城・炎上してしまった。信俊の子小金丸(七歳)と吉安丸(五歳)も捕らえられて殺された。
 戦国の世とはいえ、この城の最期は涙なくして語ることはできない。
 ▲ 登城口に建つ「久松家創業地・城山公園」の石碑と城址説明板。地元では坂部城と呼ばれている。
▲ 城山公園に再現された「綿畑」。久松氏に嫁したお大の方は里人たちに綿の栽培をすすめたという。

▲ 城址に建つ「阿久比古城趾之碑」。明治三十年(1897)に建てられた。

▲ 遠祖菅原雅規から二十数代を経た久松定益が明応三年(1494)に創建した龍渓山久松寺洞雲院山門。阿久比城址の北300mほどの所にある。阿久比城の築城もこの頃であったのかもしれない。

▲ 洞雲院の墓地の一画に設けられた久松・松平家葬地。右から洞雲院を創建した定益、そして定義、俊勝と三代の当主が並び、続いて徳川家康の生母お大の方、桑名藩三代藩主松平定綱(家康異父弟定勝次男)の五人が祀られている。

▲ 久松・松平家葬地から離れて本堂裏にたたずむ阿久比城最後の城主となった久松信俊(右)とその子小金丸(中)と吉安丸(左)の墓。
----備考----
画像の撮影時期 2010/04
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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