牛岐城
(うしきじょう)

                   徳島県阿南市富岡町            


▲ 城址公園として再整備された牛岐城址。丘上の八角形の
塔は「牛岐城址産業展示館」の展望台である。富岡の町が霧に
覆われると瓢箪型をした城跡がちょうど亀のように浮かび出
て見えることから別名「浮亀(うきき)の城」と呼ばれている。

阿波南方の押さえ、
        浮亀の城

 牛岐と呼ばれる以前、この地は牛牧と呼ばれていた。この牛牧の地に最初に城を築いたのは安宅備後権守頼藤であったと伝えられ、時は観応二年(1351)のことといわれている。
 この当時の安宅氏は足利幕府下にあって紀伊、淡路、阿波に勢力を広げ、その水軍力で大坂湾から紀伊水道に至る海上を押えていた。
 ところが、足利尊氏没後の延文四年(1359)、頼藤は南朝方に鞍替えした。そして康安二年(1361)、細川清氏が讃岐で南朝方として挙兵するなどして阿讃地方は南朝勢力に染まったかに見えた。
 しかし細川頼之(京兆家)の清氏討伐によって阿讃の南朝方は制圧された。
 この細川頼之の重臣として活躍したのが新開遠江守真行である。阿波は細川氏の領国であり、新開氏も何らかのかたちで領国経営に関わっていたものと思われるが、史実の上で牛牧と新開氏関係が明らかになるのは真行の四代目遠江守実綱からと言われている。時期は永正(1504-21)の頃であったと思われる。港湾を押さえ、水運・海運が発展し、城下町が小規模ながらも形成されはじめたのもこの頃であったろう。
 そして時代は元亀・天正の激動期を迎える。天正五年(1577)、土佐の覇者となった長宗我部元親が阿波進攻に乗り出して海部城(海陽町)を落とした。海部城は阿波南方軍代となった香宗我部親泰の拠点となった。
 天正七年(1579)、北進する長宗我部勢と新開勢が桑野・今市(阿南市)で戦い、新開勢は味方の多くを失い、牛岐城に後退して籠もった。いまや老将となった新開実綱入道道善は、南方の諸氏がすでに土佐方に染まったいま、ひとり抗戦することに意味はないとして翌八年に降伏した。
 香宗我部親泰は牛岐城に入り、阿波南方総押さえの拠点とした。一方の降伏した新開氏は土佐勢に従軍して三好氏攻略などに加わったようだ。
 天正十年(1582)、阿波を平定した長宗我部元親は有力土豪の排斥を実行した。九月に一宮城の一宮成裕を謀殺し、続いて新開道善を丈六寺(徳島市)に誘殺したのである。
 この時、長宗我部側は知行の事について談合したいと道善を寺に呼び出し、酒肴を振る舞い、やがて泥酔した頃を見はからって討取ったと伝えられている。道善の一行もここで斬り死にし、一族郎党らも牛岐城の香宗我部勢によって討取られてしまった。

▲ 牛岐城は南北に瓢箪型をした城として知られている。これは北側の丘に建てられた新開神社である。もちろん祭神は新開遠江守である。
 四国をほぼ手中に入れた長宗我部の勢威も長くは続かなかった。天正十三年(1585)の豊臣秀吉による四国征伐によって長宗我部元親は土佐一国に戻されたのである。
 阿波は蜂須賀家政の領国となり、牛岐城には重臣細山帯刀が南方総押えとして兵五百とともに入城した。帯刀は後に賀島主水正政慶と改め、蜂須賀家の二番家老を務めた。また牛岐の町を富岡と改名して城下町の整備・発展に尽力した。
 牛岐城の廃城は他の阿波九城と同様に寛永十五年(1638)まで維持された後に廃された。
 ▲ 平成21年(2009)の公園再整備にともなって新たに建てられた城門。
▲ 城山への登城階段はLEDのイルミネーションで飾られ、頂上には「恋人の聖地」のゴールドプレートが設置されている。

▲ 城山に建てられた城址碑。

▲ 主郭の城山から北の曲輪である新開神社の丘を展望。

▲ 北の曲輪である新開神社から主郭を展望。

▲ 再整備された城址公園。
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画像の撮影時期*2010/01

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