丸岡藩砲台
(まるおかはんほうだい)

                   福井県坂井市三国町梶       


▲ 丸岡藩砲台跡は国内各所に築かれた多くの台場のな
かでも残存度が高いことから国指定の史跡となっている。

攘夷鎖国、
      海防の備え

 江戸時代末期、幕府による海防強化策が講じられるなか、越前では福井藩が高島流洋式砲術を取り入れていち早く台場の築造を推進していた。嘉永元年(1848)には大砲二十六門を藩領沿岸各地に設置している。藩主松平慶永(春嶽)は後に開国を主張したことで知られるが、この当時は兵備を強化して外国船を打ち払って独立国の気概を示すべきであるとの攘夷強硬論者であった。
 越前丸岡藩においても幕府の沿岸警備強化の指示を受けて藩領沿岸に台場を築いた。
 国指定史跡となっているこの丸岡藩砲台跡はそのうちの一つである。梶浦に築かれたことから梶台場とも呼ばれている。築造されたのは嘉永五年(1852)二月といわれているからペリー来航の前年にあたる。
 築造には高島秋帆の洋式砲術を学んだと伝えられる藩の砲術家栗原源左衛門があたったと言われている。丸岡藩はその後、慶応二年(1866)に山鹿流兵学や空心流砲術、荻野流砲術を廃止して西洋式銃隊に軍制を改めたが、この時にも栗原源左衛門は銃隊の師範を命ぜられている。
 この砲台が黒船を砲撃したということは聞かないし、また大砲がいつ頃まで据え付けられていたのかも分からない。ただ、当時の砲台の概要はほぼ完全な姿で残っていると言われている。胸墻(きょうしょう)と呼ばれる土居の高さは約1.8m、その基底部は石垣で強化され、長さ約33mに渡って弓状にわずかな弧を描いている。そしてほぼ等間隔に五ヵ所の砲眼が設けられている。
 攘夷沸騰の時代のことである。この砲台跡の風景を眺めていると、異国人の侵略許すまじと、まなじり上げて水平線を見つめる藩士の健気な姿が、彷彿として眼前に浮かぶのは私だけではないだろう。

▲ 胸墻(きょうしょう)の外側。
 ▲ 駐車場に設けられた説明板。
▲ 砲台跡は海に向かって弓状の弧を描いている。

▲ 砲眼から日本海を望む。
----備考----
訪問年月日 2010年8月11日
主要参考資料 「日本城郭大系」
「丸岡城略史」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ