中島城
(なかじまじょう)

                   蒲郡市大塚町          


▲ 中島城跡はこの交差点から北側にかけての範囲とされ、新幹線
によって分断されていると言われる。正面石垣上の常夜灯は明治六年
(1873)建造のもので、その脇(右)に城址説明板が立てられている。

戦国、岩瀬氏の古城

 中島城は三河岩瀬氏累代の居城跡と伝えられ、大塚城とも呼ばれる戦国期の城跡である。
 中島城を創築したのは岩瀬氏初代治部左衛門尉忠家である。忠家は陸奥守護二階堂氏の末流で奥州岩瀬城の出生であると伝えられている。次男であった忠家は故郷の岩瀬郷(福島県須賀川市)を離れて常陸鹿嶋氏に、次いで下総千葉氏に仕えた。その後今川氏親に仕官して三河国宝飯郡千両(ちぎり)の地を与えられ、後にここ大塚に移ったと伝えられている。裸一貫、主人を替えつつも己の力を信じ、一城の主と成り得たのが三河の地であった。
 ここで気になるのがその時期である。城址の説明板や諸書を見渡すと、忠家が三河大塚にやって来たのは永享十二年(1440)であるとし、今川氏親に仕えたとしているのだ。しかし永享十二年当時の今川氏の当主は氏親の先々代範忠の時代であり、氏親誕生以前なのである。しかもこの時期に駿河守護今川範忠が三河にその支配力を及ぼしていたとは考えられない。
 したがって忠家が大塚に城館を構えた時期に間違いないとするならば、この当時三河に所領を持っていた一色氏ではなかったかと思われる。戦乱の関東で諸家を渡り歩いていた忠家が永享の大乱で一色氏の陣に加わり、同氏とともに三河に落ち延びたとも考えられよう。この当時、宝飯郡中条郷に牧野氏(牧野城)があり、岩瀬氏は牧野氏とともに戦国の世を歩むことになる。
 今川氏親が三河に進出するのは永正三年(1506)以降のことである。すでに三河一色氏の時代は終わり、東三河の諸氏はこれを機に今川氏の傘下に属することになる。岩瀬氏が今川氏親の臣になったのはこの時からであろう。忠家はすでに亡く、二代氏成の時であろうか。
 三代氏安の時、享禄五年(1532)に松平清康に攻められ、これに降ったようだが、清康亡き後は再び今川氏に属したようだ。
 四代氏俊は永禄五年(1562)、松平元康(徳川家康)に攻められてこれに降った。
 その後、岩瀬氏は家康の下で長篠合戦(設楽原古戦場)や高天神城攻めに参加、天正十八年(1590)には家康とともに関東に移り、房総の地に千五百石を与えられた。
 また、一族のうちから旧地大塚に土着した岩瀬氏は現在に至っているという。
 中島城主岩瀬氏にまつわる伝説の中に、弘治二年(1556)落城して城主が討死、その奥方も殉死したというものがある。他に関ヶ原合戦時、赤坂に友軍を待っていたがあまりに堂々の進軍に驚き、おじけづいて逃げ帰った。妻がこれを諌めて切腹させ、自らも自害したというものがある。いずれも近くに残る「姫塚」にまつわるものである。

▲ 城址とされる岩瀬氏宅地内に建つ城址碑と石祠。
 ▲ 岩瀬氏宅地内に建つ城址碑には「大塚城址」と刻まれている。
▲ 城址、中島常夜灯のところに立てられた説明板。幕末に幕府海防係として外国との折衝にあたった岩瀬忠震のことが記されている。

▲ 城址北東の東海道本線近くにある「姫塚」。丹野城落城の際に城主の姫が自害した所とも、また中島城主の奥方が自害したところとも伝えられている。
----備考----
訪問年月日 2010年10月16日
主要参考資料 「蒲郡の諸城」
 「蒲郡風土記」
「駿河今川一族」他

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