北裏城
(きたうらじょう)

                   豊橋市老津町            


▲ 北裏城跡はこのように農地となり、遺構はみられない。ただ、この土壇状の
段差が城跡であったことの名残りであろうか。かつてはこの段差の一画に秋葉
神社の祠(現在は移動されている)があって土塁状の高まりを残していたそうである。

戸田金左衛門の
         古城跡

 「老津村史」(昭和33年発行)に「戸田金左衛門が波入江城より移り住んだもので字北ヶ谷(旧字北裏)にあり、何時頃に荒廃したか明らではないが今は畑地となって俗に此処も城山と言われている」とあるのみで、城史の詳細は分からない。
 戸田金左衛門は庄右衛門とも呼ばれ、徳川家康の家臣となって戦功を重ねた戸田忠次の父忠政のことである。
 村史には波入江城より移り住んだとあるが、その時期は不明である。ただ、戸田忠政の「太平寺寄進状」というものが太平寺(豊橋市老津町)に残されており、城郭関係の資料にこのことが載せられている。寄進状の日付は永禄七年(1564)七月八日ということである。
 永禄七年という年は忠次が家康のもとで三河平定戦に活躍した戦功によって故地でもある老津に二千三百石を給わって高縄城に入った年である。
 つまり、波入江城に居た忠政、忠次父子は天文十六年(1547)に今川氏によって戸田本家(田原城)が滅ぼされたときに当地を離れて岡崎の松平氏のもとに身を寄せ、雌伏の時を経て故郷に凱旋したということになる。
 第一線を退いた忠政はなつかしい領内を気ままに廻り、波入江の古城跡にも立ち寄ったことであろう。しかし、再建は覚束ないほどに荒廃していたことと思われる。
「それでも海の見えるところに住みたい」
 忠政は波入江城の南西約600mの高台に居館を定めた。
 それがこの北裏城であったのではないだろうか。戦国の荒波をかいくぐって生きてきた老武者が三河の海を眺めながら余生を送った。そんな城跡なのかもしれない。

▲ 耕地整理によって移動された秋葉神社の祠。
----備考----
訪問年月日 2010年4月25日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「老津村史」他

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