西条東城
(さいじょうひがしじょう)

                   徳島県阿波市吉野町西条          


▲ 西条東城跡。右の竹薮から左の平屋の住宅にかけての周辺が城址と思われる。

美少女誕生

 西条東城の創築については貞和二年(1346)に森備前守春之が秋月城の支城として築いたといわれている。そして天文年間(1532-55)に岡本美作守清宗が勝瑞城の細川持隆に仕えて百貫を領していたという。
 天正十年(1582)に長宗我部元親によって落城するまでのこの城に関する城史で知り得ることはこの程度であろうか。
 ただ、特筆すべきは岡本清宗の娘がやがては阿波一国を傾けたと評される美女小少将であり、この城が彼女の生まれた城であったということであろう。
 天文のはじめ頃、清宗の娘が守護細川持隆の目にとまり勝瑞の屋形に側室として召された。
 彼女は後に長宗我部元親の子を産んだとされており、それは天正十年(1582)以降のことであろうから、それから推定すると持隆に見出された頃の年齢は十代前半の頃ではなかったか。いずれにせよ、目の覚めるような美少女であったに違いない。
 持隆の側室となり、小少将と呼ばれた彼女は阿波最後の守護となる真之を産んだ。
 天文二十一年(1552)、持隆は重臣三好義賢に謀殺されてしまう。政策面での対立があったとされているが、すでに義賢と小少将はできていたと言われているから謀殺の真意が何であったのか邪推されても仕方あるまい。
 義賢は小少将を正室にして大形殿と呼ばせ、二子を儲けた。長治と讃岐十河氏を継いだ存保である。
 義賢は兄長慶と互いに支え合って三好時代の絶頂期を築いた。しかし世評は手厳しい、大形殿はその美貌を武器に義賢を骨抜きにし、権力を欲しいままにしたという。
 永禄五年(1562)、義賢は和泉久米田の戦陣に散った。義賢の後は嫡男長治が継いだが、若年のために重臣篠原長房が後見した。
 夫を亡くした大形殿はというと、長房の弟とも一族ともいわれる篠原自遁と恋仲になったというのだ。長房は自遁を戒めたが、元亀三年(1572)、反対に長治の軍勢に責められて居城上桜城にて自刃して果ててしまった。
 この頃になると三好家に対する阿波国人の心も離れはじめ、長宗我部氏による阿波進出が開始されると国人の多くが長宗我部に降り、三好に矛先を向けるようになってしまった。
 天正十年(1582)、勝瑞城は長宗我部勢によって落とされた。大形殿こと小少将のその後のことはようとしない。ところが元親の側室となって生き長らえていたのであった。
 天正十四年(1586)、阿波の大名となった蜂須賀家政の家臣森監物が三百の兵とともにこの西条東城にやってきた。蜂須賀氏による阿波統治の要である阿波九城のひとつとして維持され続けたのである。
 寛永十五年(1638)、他の八城とともに美少女誕生の歴史をもつこの城も廃城となった。
 かつて天守台と呼ばれる丘があり、堀もめぐらされていたというが、現在は見るべきものもなく、石碑がひとつ建つのみである。
 ▲ 城址には石碑が建つのみで、井戸跡が残ると言われているが、草木に覆われて荒れ果てた状況下では見つけられなかった。
▲ この城址碑は昭和51年(1976)に吉野町によって建てられた。史跡として町の管理下にあるのだろうか。

▲ 城主となった蜂須賀家家臣森監物を祀るといわれる小祠。その向こうに廃車と思われる車が放置されている。
----備考----
画像の撮影時期*2010/01

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