小牧山城
(こまきやまじょう)

国指定史跡、続百名城

                 愛知県小牧市堀の内1丁目      


▲ 小牧山城跡の山頂に建てられた模擬天守「小牧市歴史館」。

信長、美濃攻略の拠点

 小牧山城は織田信長が美濃攻略の拠点として清洲城からその居城を移した所として知られている。

 最初にこの小牧山に目をつけたのは信長の父信秀である。天文十六年(1547)、信秀は美濃の斉藤道三を攻めたが大敗して多くの士を失い、尾張に退却した。この時に信秀は、負傷して岩倉城に退いた配下の江崎善左衛門宗度に小牧山を守るように命じたというのである。以後、この江崎氏はどのように時代が変わろうとも一貫して小牧山を守り続け、子々孫々明治に至っている。

 信秀が小牧山を維持しようとした目的は伝えられていないが、美濃攻略の足掛かりにしようとしたのかもしれない。もしそうであれば、それは信長によって実現されたということになろうか。

 永禄二年(1559)、岩倉城を落として尾張を統一した信長は翌年、今川義元を桶狭間に討取り、同四年三河の松平元康(徳川家康)と同盟関係に入った。これで美濃攻めに専心できる条件が整った。

 信長ははじめ西美濃方面からの攻略を画策していたがうまくゆかず、犬山方面からの攻略に転換した。小牧山築城と居城移転はこの方針転換によって推し進められたもので、永禄六年(1563)のことといわれている。

 築城工事は丹羽長秀を奉行として進められた。城と同時に家臣団の屋敷や町屋の建設も進められた。これは城と城下町が一体となった都市造りの先駆をなすものとして注目されている。

 永禄十年(1567)、美濃攻略を成し遂げた信長は小牧山城から稲葉山城(岐阜城)へその居城を移した。武家屋敷や町屋も小牧から岐阜へと移り、小牧山の城と城下町は廃された。

 その後、小牧山が再び城砦として復活するときがやってきた。天正十二年(1584)、徳川家康と羽柴秀吉の対決、小牧・長久手の戦いにおいてである。

 信長の次男信雄を援けて一万五千の兵を率いて清洲城に入った家康は、秀吉方が犬山城を落として羽黒付近に進出していることを知ると、直ちにこれを撃退、榊原康政に命じて小牧山に土塁や堀の築砦工事を実施した。十日後の三月二十七日、防御態勢の成った小牧山に家康が布陣、二日後には信雄も小牧山に入った。

 家康が小牧山に布陣した日、秀吉も犬山城に三万の軍勢を率いて入城した。

 戦機到来、大合戦となるかに見えたが、実際には小牧山付近で小競り合いがあった程度で、双方対峙のまま十日ほどが経過した。秀吉方は戦況打開のために岡崎城攻撃の行動に出たが、それを阻む徳川勢と四月九日に合戦となった。長久手の戦いである。

 しかし秀吉と家康が雌雄を決するまでにはいたらず、十一月に双方は和睦となった。

 小牧山城も用済みとなり廃された。しかし、小牧山そのものは江崎氏によって保護され続けた。おかげで私たちは家康が陣城として構築した際の空堀や土塁を目にすることができるのである。

山頂の歴史館西側に残る信長時代の石垣

▲帯曲輪地区に建つ史跡碑。
 ▲ 南側大手登山口。小牧市役所の脇から登城開始。
▲ 遊歩道を歩いているといたる所に曲輪跡が散見できる。これは土塁と土橋の跡であろう。

▲ 山頂に至る遊歩道は自然散策を楽しむために山内を周遊できるようになっている。これはその途中で現れた堀切跡。

▲ 山頂の歴史館最上階から北側美濃方面を展望。

▲ 尾張徳川家19代徳川義親氏の銅像。昭和5年(1930)に小牧山は同氏から小牧市に贈られ、自然公園として現在に至っている。

▲ 小牧山北側公園入口に設けられた土塁の断面展示施設。
----備考----
訪問年月日 2010年2月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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