鳥越城
(とりごえじょう)

国指定史跡、続百名城

              石川県白山市三坂町       


▲ 鳥越城の本丸門と桝形門(左)。石垣は織田勢の駐留時に築かれたものとされる。この
城は本願寺と敵対する織田信長の一揆討伐に対抗して築かれたものと見られている。

一揆敗れて
        山河あり

 鳥越城の後二の丸跡北側に設けられた駐車場から本丸に至る道を歩き始めると右側に後三の丸と呼ばれる曲輪が見上げる高さにある。歩を進めながらその視線を曲輪の裾に移すと一基の記念碑が建っている。

 碑面には殺された子を抱く女、戦いに斃れた男そして磔にされた村人の無残な姿がレリーフで表されている。台座に刻まれた「一揆敗れて山河あり」の題字が、この城に重く悲しい壮絶な歴史のあったことを物語っている。

 長享二年(1488)、加賀一向一揆は守護富樫政親を滅ぼした。以来、加賀は「百姓の持ちたる国」として本願寺門徒による自治体制が百年ちかく続いていた。

 元亀元年(1570)、石山御坊を本拠地とする本願寺十一世顕如は織田信長との開戦に踏み切った。この戦いはその後十年に及び、伊勢、紀伊、越中、越前、加賀における門徒衆も信長との戦いに立ち上がり、多くの犠牲を払うことになる。

 この年、顕如は紀伊雑賀門徒の鈴木出羽守を加賀山内衆(白山麓門徒)の大将として派遣した。

 鈴木出羽守は二曲(ふとげ)城を居城とし、山内衆を率いて本願寺軍団の一翼を担って戦った。越中倶利伽羅峠の戦いでは上杉謙信勢を撃退するなどしてその猛将ぶりを見せている。

 こうした山内衆と鈴木出羽守の働きに対して、織田勢攻囲下に苦闘中の顕如が天正六年(1578)に「毎度粉骨有難く候、弥(いよいよ)しかるべき様たのみ入候他無候」と激励の書状を送ってその忠節を賞している。

 しかしこの間に柴田勝家を大将とする織田勢の北陸進攻は進み、先の顕如の書状を鈴木出羽守が受けた時点ではすでに加賀の大半が織田の支配に屈していたのである。

 鈴木出羽守は仏敵織田勢の侵略から白山麓山内衆を守るために二曲城の北約1kmの山上に城を築いた。これが鳥越城である。

 天正八年(1580)閏三月、顕如は信長に屈服して石山合戦は信長の勝利で終結した。 

 鈴木出羽守らは織田勢の来襲に備えて尾添、瀬戸の砦をはじめとする要所の砦を固めた。

 一方、加賀平定を進める柴田勢は四月に金沢御坊を落とし、加賀一揆最後の地となった白山麓山内衆の攻略に取り掛かった。

 しかし山内衆の抵抗は手強かった。そこで柴田勝家は和睦の名のもとに鈴木出羽守一族を松任城に呼び出して騙し討ちにしてしまったと伝えられている。「信長公記」には十一月十七日に加賀一揆歴々の者十九人の首が安土へ届けられたとあり、その中に鈴木出羽守とその子ら右京進、次郎右衛門、太郎といった名が記されている。

 主を失った鳥越城と二曲城には柴田勢が進駐、柴田家臣の吉原次郎兵衛が鳥越城の城将となり、二曲城と合わせて兵三百が駐屯した。

 翌天正九年(1581)三月、柴田勝家らが馬揃えのために上洛した隙を衝いて山内衆が蜂起した。山内の一揆勢は鳥越城と二曲城の柴田勢を襲撃して城将の吉原次郎兵衛以下三百を悉く討ち取って城を奪還したといわれる。

 しかし上洛することなく金沢にいた佐久間盛政勢によって一揆は鎮圧され鳥越城は再び織田方のものとなった。勢い付いた織田勢は越中の一揆勢までも攻め潰してしまった。

 されど「百姓の持ちたる国」という一向一揆の精神は山内衆の心から消えることはなかった。

 天正十年(1582)二月、再び山内衆が蜂起した。勝算のないことは明らかであったが、仏敵信長の威に屈するよりは殉教の戦いで斃れることの方を選んだのであろうか。戦いは鳥越城をめぐる攻防となり、まさに加賀一揆最後の戦場となった。

 やがて一揆勢は佐久間勢によって鎮圧され、続いて情け容赦のない残党狩りがはじまった。鳥越城の手取川上流から尾添川にかけて散在する吉野、佐良、瀬波、市原、木滑、中宮、尾添の山内七ヵ村は徹底的に破壊され、門徒三百余人が捕えられて手取川の河原で磔にされた。

 加賀一向一揆の最後は残雪を血に染めた凄惨なかたちで幕を閉じたのである。

 破壊された村々からは人影が消え、三年間は荒地と化したと伝えられている。

▲ 加賀一向一揆五百年記念碑「一揆敗れて山河あり」。殉教の精神を
讃仰し、そのエネルギーを継承して新たな鳥越村を築く...と記されている。

 ▲ 道の駅「一向一揆の里」からは鳥越城の全景が望見できる。道の駅の南側に「白山市立鳥越一向一揆歴史館」が併設されている。
▲ 県道44号(左の直線道路)沿いに設けられた登城口。

▲ 駐車場から見上げた後二の丸の法面。

▲ 後三の丸。本丸北側に位置する曲輪で、最も広い面積をもつ。

▲ 駐車場からの歩道は左側に空堀跡を見ながら本丸へと向かっている。

▲ 復元された桝形門と石垣。

▲ 本丸虎口桝形部分。

▲ 本丸。掘立柱建物跡と礎石建物跡の遺構が表示されている。

▲ 本丸からの展望。眼下の田園風景が美しい。

▲ 中の丸門。本丸と二の丸の間の曲輪を中の丸と呼ぶ。

▲ 前二の丸。周囲に土塁が巡らされている。

▲ 「加賀一向一揆最後のとりで・鳥越城址・天正八年十一月落城」と刻まれた城址碑。登城路の途中にある。
----備考----
訪問年月日 2010年8月10日
主要参考資料 鳥越一向一揆歴史館配布資料、他

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