安城古城
(あんじょうこじょう)

                   安城市安城町        


▲ 安城古城跡に建つ社口堂の祠。この祠の部分だけが周辺より
高くなっており、土塁の一部が残ったものかも知れない。

安城城前史を刻む
          古城跡

 ここに居館を置いていた領主(和田氏)が戦国争乱の世情に合わせ、要害の地に安城(祥)城を築いて移った。
 というのが通説となっている。説明板にもある和田氏五代というのは、志貴荘の地頭となった畠山国清の二男宗基を初代とする満平、持平、政平、親平のことである。和田氏五代はおよそ五十年続いたと言われている。そして五代目親平が永享の乱(1438)の世情に対処するために、つまり領地支配強化のために新城(安城城)を築いて移転したとされている。
 安城城は後に(文明三年/1471)松平信光によって略取されてしまうが、残念なことにその当時の安城城主が誰であったのかが伝えられていないのである。
 そもそも和田氏の存在を伝えるものが安城市域には全く無いそうで、和田氏五代の城館跡というのも推測の域を出ないものなのである。では、この古城跡にはいったい誰が居たのか。
 松平氏以前の安城に関しては暗中模索の状態にあるというのが現状なのかもしれない。今後の研究に俟つほかないだろう。
 安城城の築城によって廃城となったとはいえ、地理的に安城城の西側に位置する関係で、合戦時には出城的な役割を担っていたと思われる。
 天文九年(1540)、織田信秀率いる三千の軍勢が安城城を攻めた。この当時、安城の松平氏は岡崎城を本拠としており、城代として松平長家が安城城に居た。合戦時、長家の援軍として松平信康、松平利長、松平康忠、松井忠次ら千人ほどが安城に駆け付けた。長家は籠城ではなく城外で織田勢を迎え撃った。戦いは騎馬隊の多い織田勢に徒歩の松平勢が挑む形となり、熾烈な戦いとなった。結果は長家以下多くの将士が討死して安城城は織田信秀のものとなったのである。
 この戦いの際にこの古城跡にも松平勢が布陣したと伝えられている。一説には松平康忠が布陣、織田方の水野忠政勢と戦ったという。康忠はこの戦いで討ち死、戦場に斃れた。
 ▲ 祠の南側から見ると土塁跡のように見える。
▲ これも南側からの様子である。

▲ 城址に立てられた説明板。市指定史跡となっている。
----備考----
訪問年月日 2010年8月13日
主要参考資料 「安祥城物語」他

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