不相城
(ふそうじょう)

                   蒲郡市竹島町         


▲ 不相城跡にはホテルとその関連施設が建ち、城跡としての遺構を留める
場所はない。しかしながら曲輪や堀跡を想起させるような場所もある。これは
ホテル西側に設けられた庭園であるが、かつての堀跡を連想させる場所でもある。

城を捨て
      今川に奔る

 永禄五年(1562)、西三河を平定した松平元康(徳川家康)は東三河進出の手始めに鵜殿氏の攻略に乗り出し、その本城である上ノ郷城を攻めた。
 鵜殿氏は西郡(現・蒲郡市)一帯に勢力を張る土豪で、諸所に一族が蟠踞していた。鵜殿本家は上ノ郷城を居城とし、分家筋が下ノ郷城(蒲形城)柏原城、不相城とそれぞれ城を持って支配地を固めていた。松平元康が上ノ郷城を攻める際に下ノ郷と柏原の鵜殿氏は松平方に属したが不相鵜殿氏は本家とともに今川方に残り続けた。
 本家の鵜殿長照は松平勢との合戦の末に城を枕に討死して果てた。孤立無援となったここ不相城の鵜殿平蔵長成は子の藤九郎以下一族を率いて城を脱した。今川の武将小原鎮実が守る吉田城(豊橋市)に奔ったのである。
 このため不相城は長成一代で終わったと諸書の多くは記している。したがってその後この城跡は利用されることはなかったようだ。古図を見ると城山全体に曲輪が多く配され、堀や土居が巧妙に入り組んで描かれている。
 昭和九年(1934)にこの城跡にホテルが建設されたが、この際に遺構の多くが消滅してしまったのではないだろうか。現在でもそのホテルは営業を続けており、城郭風建築の醸し出すクラシックな雰囲気は観光地蒲郡を象徴する建物となっている。
 ところで、吉田城に入った鵜殿長成らはどうしたのであろうか。諸書の多くは吉田城に逃れたというところでその記述を終えているが、「鵜殿家史」巻六の系図・長成の項には吉田城入城後のことが簡単に記されている。
 永禄七年(1564)六月頃から吉田城に対する松平勢の攻撃が始まった。籠城する今川勢も奮闘して戦いは長期持久戦となり、翌九年三月に至って和議開城となった。城兵の助命と小原鎮実の退城が条件であった。この時、「鵜殿家史」によれば、長成は一族十二人と共に大神君(徳川家康)に属し、大久保忠世の陣隊に隷したとある。
 吉田城における九ヶ月の籠城戦で今川家への忠義は果たしたと自身を納得させたのであろうか、それとも故地三河を去ってまでして今川家に忠義立てしなければならないのかと思い悩んだのかもしれない。ともかくも、鵜殿長成は生き続け、没したのは天正十五年(1587)であった。

▲ 城山の頂に建つ蒲郡プリンスホテル。
 ▲ ホテル北側の最も高いと思われる場所。
▲ 城山の南側は三河湾である。橋で繋がっている島は観光名所の竹島である。

▲ 城山から西方を展望。
----備考----
訪問年月日 2010年8月1日
主要参考資料 「鵜殿家史」
「蒲郡の諸城」他

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