楽田城
(がくでんじょう)

                   愛知県犬山市字城山          


▲ 楽田城跡の城址碑と城山移築記念碑。

初期天守を
       備えた城

 楽田城は殿守、つまり天守の原型を備えた城として城郭関連の年表の多くに記載されている。

 これは小瀬甫庵著「遺老物語」に書かれたことがもとになっている。
「殿守の起こりは永禄元年春の事なり…」
 ではじまるもので、高さ二間余に垣を築き、その上に五間七間の矢倉を造り、真中に八畳敷きの二階座敷を設けたと記されている。

 現在、遺構は小学校の建設やその後の校庭拡張によって消滅してしまったが、破壊前の調査では、高さと広さともに物語の記載と一致していたといわれている。また、高さ二間余の垣は石垣ではなく土壇であったようである。

 さて、城の歴史である。楽田城の創築は織田弾正左衛門久長によるといわれている。

 織田信長以前の織田氏の系譜は錯綜していてよく分からないが、久長は清洲系織田氏の祖にあたるようで、信長の系譜も遡れば久長にたどり着くようである。

 この久長の活躍した時期であるが、生没年が不明であるためによくわからないが、応仁の乱(1467)前後の記録にその名が見られるということである。したがって、楽田城もその頃に築かれたものと考えられている。

 その後、楽田城は久長の孫寛貞が城主を継いでいたが、永禄の初め頃に犬山城の織田信清に攻め落とされた。殿守が築かれたのもこの頃であり、その後の装飾的な天守とは違って実戦に対応したものであったと思われる。

 永禄六年(1563)、織田信長は小牧山城を築いて美濃進出を企てるようになる。その際に敵対する信清の犬山城を攻め落としたが、この時に楽田城は信長の支配下に置かれることになった。

 楽田城には信長家臣の坂井政尚が入った。政尚は元亀元年(1570)に近江堅田の戦いで討死したため、梶川高盛が城主となったが、ほどなく廃城となったようである。

 天正十二年(1584)四月、羽柴秀吉が数万の軍勢を徳川家康の布陣する小牧山城方面に展開してここ楽田城跡に本陣を置いた。史上有名な小牧・長久手合戦である。しかし、戦いは小競り合い程度で終わったため、楽田城は矢玉の洗礼を受けることもなく再び廃城となった。

 現在、城跡は楽田小学校の敷地となり、遺構は存在しない。ただ校門前に城址碑が建つのみである。

南側から見た城址。小学校の校舎と校庭が周辺の土地より高くなっている

▲楽田城に築かれた望楼付きの建物が天守の起源といわれていると説明されている。
 
▲ 小学校の校門前に移築整理された城址碑とそれに関連する石碑が建っている。

▲ 以前、小学校内の土塁上に建てられていた城址碑。
----備考----
訪問年月日 2010年2月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」

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