長沢城
(ながさわじょう)

        愛知県豊川市長沢町古城     


▲ 長沢城は長沢松平氏の本拠地となった城である。かつては
東海道を見下ろす位置にあり、現在も国道、鉄道高速道路が城址
を貫通している。古今を通じて交通の要衝であることに変わりはない。
(写真・国道一号線沿いの字古城に残る井戸跡。)

長沢松平氏の古城跡

 松平氏は三代信光の時に岩津城を拠点として三河国内に大きく飛躍、勢力を広げた。信光は二十七人の男子を儲けたと伝えられ、手に入れたそれぞれの地を与えて分立させた。竹谷形原、大草、能見、五井深溝、長沢の諸家がそうである。この中の長沢松平家の拠ったのがここ長沢城なのである。
 室町初期、この付近は今川家臣関口氏の領治するところであったと云われ、長沢の地には一族の長沢四郎(関口満興の弟直幸又は富田右近の子とも言われる)が城館を築いて支配していたという。
 長禄二年(1458)、松平信光は長沢四郎を夜襲してその城を奪い、子の親則(長男、八男、十一男と諸説ある)に与えた。長沢松平氏はこの親則を初代としてはじまることになる。
 その後、親益、親清、勝宗、一忠と続いた。その間に城の規模も大きくなり、東西約200m、南北約250m、土塁や堀が幾重にも取り巻く堅固な城構えとなった。
 六代親廣は嫡男政忠とともに永禄三年(1560)の桶狭間合戦に出陣、松平元康(徳川家康)に従軍した。この戦いで政忠が討死してしまった。親廣は嫡孫康忠を後嗣とした。
 八代康忠は家康のもとで姉川合戦、長篠合戦、伊賀越え、長久手合戦など各地の戦場を疾駆し、徳川十六神将に数えられた。
 九代康直は天正十七年(1589)の小田原攻めに従軍した。その後の関東移封によって武蔵国深谷城一万石の大名となり、三河を去った。康直は文禄二年(1593)に二十四歳の若さで没した。嗣子がなかったことで家康は誕生したばかりの七男松千代を長沢松平家の後嗣とした。

 その松千代も慶長四年(1599)に六歳で早世、家康は六男辰千代(忠輝)を再度長沢松平氏の後嗣とした。
 忠輝はその後下総佐倉五万石、続いて信濃川中島十二万石さらに越後高田城主となって七十五万石の大々名となった。しかし、大坂夏の陣(1615)の歳の不行跡を咎められ、元和二年(1616)に改易となった。
 忠輝の改易で長沢松平の嫡流は絶えたが、享保四年(1719)に九代康直の弟正信の子昌興が幕府に訴え出て長沢松平の後裔であることを認めさせた。後に昌興は三河長沢の地を賜り、幕末期には十八代忠敏が講武所教授方や浪士組扱、新徴組支配に任ぜられて幕臣として名を残している。
 長沢城の城としての機能は関東移封の段階で無くなったものと思われ、現在は東名高速道路や国道一号線、名鉄本線が城址を寸断しており、井戸跡や観音堂の辺りに古城の雰囲気を残すのみとなっている。


▲ 観音堂。便宜的に観音堂城と呼ばれているが、これは初代親則が築城の際に城内に御堂を建てたとされるもので、祀られた観音像は「古城観音」と呼ばれて大切にされている。したがってこの観音堂の建つ場所も長沢城の一部ということになる。九代康直が武蔵深谷に移る際に家臣近藤新十郎に古城観音の管理を委ねたと言われている。
 ▲ 長沢小学校の南側道路沿いに城址説明板が立っている。
▲ その説明板にある縄張図。南側には三重の堀が描かれている。

▲ 小学校に隣接する長沢保育園の東隣に観音堂がある。これはその入口の階段。

▲ 観音堂から国道一号を挟んだ向かい側には井戸跡がコンクリで保護されている。

▲ 井戸跡から国道一号越しに観音堂(中央街灯の向こう)の森を見る。

▲ 国道一号の北側、字古城と呼ばれる地域は高台になっており、城跡であったことを偲ばせるが、現状は宅地化され、その一画に城址碑が建つのみである。
----備考----
訪問年月日 2012年10月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「松平の族葉 十四松平」他

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