白羽の湊
(しろわのみなと)

                 浜松市南区白羽町           


▲白羽の湊は南朝興隆のために伊勢を出帆した宗良親王の一行が上陸した場所として伝えられ
ている。親王の一行はここから井伊谷に入り、足利幕府軍と熾烈な戦いを繰り広げることになる。
(写真・一本松の木陰に建つ顕彰碑)

宗良親王上陸地

延元三年(1338)秋、伊勢を出帆した南朝後醍醐天皇の皇子宗良親王とその一行の船団は遠江を目指した。ところが目的地近くの天龍の灘にて激しい風浪に遭遇してしまった。船団は二三日沖で漂い続け、その間に沈む船もあったが、親王の船はかろうじて白羽の湊に打ち上げられた。

現在、馬込川河口近くに「宗良親王上陸地」の碑が建っている。碑文には李花集の詞書が記されて、当時の状況を伝えている。天龍の灘とは天竜川河口の沖合のことで、激しい風浪下での湊への着岸は難しかったのであろう。

さて、かろうじて白羽の湊に上陸した親王とその一行は当地の土豪清水氏の館にてしばし静養した後に井伊谷を目指した。一行は引馬の三社神社(鹿谷町)に立ち寄り、親王がここで粟粥を食されたとの伝承がある。また史料によっては南朝に帰順した北条時行(中先代)も親王の一行にあり、上陸後守護今川氏の軍勢に襲われたがこれを撃破して井伊谷(井伊谷城三嶽城)に入ったとある。

宗良親王の上陸地に関しては遠江南岸に三ヵ所の白羽が存在している。浜松市、磐田市、御前崎市である。そのいずれもが親王上陸地の伝承を伝えているが、地理的に考察すればやはり浜松市の白羽が妥当であろうと思われる。


▲「宗良親王上陸地」の顕彰碑。

▲石碑の裏面。上陸した親王は清水家で静養した後に井伊谷へ向かったとある。

▲顕彰碑は中田島排水機場近くに建っており、一本松が目印。

▲顕彰碑。

▲馬込川。南北朝当時の河口部は入江となっていたようだ。


----備考----
訪問年月日 2021年8月8日
主要参考資料 「現地碑文」他

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