重原城
(しげはらじょう)

                知立市上重原町本郷          


▲重原城は重原荘の地頭の居館地であったとされ、戦国期に城郭として改築
されたものと見られており、織田と今川の間にあって争奪の渦中にあった。
(写真・公民館裏に建つ城址碑。)

黄金埋蔵伝説

 当地は平安末期に成立した重原荘の中心地域と推定されており荘司の居館地であったとされる。重原荘は後鳥羽上皇の母七条院の領地で重原氏が荘司として現地を支配していた。承久の乱(1221)の際には後鳥羽上皇方に参じたために没落、変わって新補地頭として二階堂氏が、さらに霜月騒動(1285)後は北条一門の大仏氏が地頭となった。

重原荘の居館地が城砦として改築されたのは戦国時代のことで緒川城刈谷城を居城とする水野氏が織田氏と結んで今川氏に対抗する際の事と見られている。ちなみに水野信元が織田信秀に臣従したのは天文十四年(1545)のことである。

城塞として改築された重原城には織田信秀の家臣荒川新八郎が駐屯したようである。

天文十七年(1548)になると西三河における織田、今川の抗争は激しくなる。太原崇孚雪斎率いる今川勢が岡崎城に進出、松平勢を先陣にして織田方との戦いに臨んだ。小豆坂の戦いなどがそれである。この時の戦いの一環と思われるが、松平勢の阿部四郎五郎忠政が重原城の荒川新八郎の兵を多く討ち取ったと「家忠日記」にあるようだ。

一説に天文十七年(1548)、重原城の今川方松平広忠麾下の野々山(島津)政兼、今川義元の命にて大高城を攻めたらしい。松平勢が荒川新八郎を撃退して島津政兼を重原城に入れたのであろうか。しかし、広忠が動かずにいたため大高城攻めは失敗、野々山政兼と一族は討死してしまった。その後、織田氏は山岡河内守伝五郎を重原城主とした。

天文二十三年(1554)五月、今川の大軍が重原城を攻撃してきた。この戦いで城主山岡伝五郎以下悉く討死して落城した。落城にあたり、山岡は家来に命じて黄金を城外に埋めさせたらしい。家来たちは黄金を埋めて城に戻る途中で敵に遭遇討死、生き残った一人が埋めた場所を山岡に伝えた。それは「朝日の照る、夕日の輝き」であったという黄金埋蔵の伝説が言い伝えられている。

重原城を確保した今川勢はこの後、織田方の水野氏攻略を推し進めてゆくことになる。


▲上重原町公民館西側に残る土塁跡。

▲同じく空堀跡。

▲上重原町公民館。

▲公民館の西側に竹藪があり、そこに土塁と堀の跡が残っている。

▲公民館の裏側に建つ城址碑。

▲公民館の北側の水路。かつての堀跡とされている。

▲権現石の祠。

▲権現石伝説の説明板。
----備考----
訪問年月日 2021年10月23日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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