鎧塚
(よろいづか)

                   掛川市佐夜鹿           


▲建武新制期の中先代の乱でこの地において中先代の反乱軍と足利尊氏の討伐軍が激戦を
交えた。鎧塚は足利方の今川頼国が敵将名越邦時を討取り、葬ったところと伝えられている。
(写真・塚の頂部に建つ石碑)

今川功名の地

 今川氏といえば駿河の守護大名で戦国期には駿河、遠江、三河の三ヵ国を従えた戦国大名であったことは周知のことである。もともとは足利氏の分流であり、吉良氏とともに今川氏も三河の地を発祥の地としている。

初代国氏が父吉良長氏の隠居地今川荘(今川城)を貰い受け、今川氏を名乗った。今川の名を天下に認めさせたのは二代基氏の子たちであった。時は北条幕府の滅亡、後醍醐天皇による建武の新政と世の中は大きく変わりつつあった。

建武二年(1335)、中先代の乱。北条氏残党による反乱軍は鎌倉を占拠し、その勢いで西上を続け、三河に迫った。基氏の子の式部大輔頼国、刑部少輔範満、五郎範国らは京都の足利尊氏のもとに参じていたと思われる。八月、尊氏は後醍醐天皇の出兵の許可を待たずに京都を出陣、三河に下向した。三河矢作で鎌倉から敗走して来た足利直義勢と合流、反撃に転じた。足利勢は反乱軍を追って東海道を遠江国へと進んだ。

追撃の足利勢と敗走する反乱軍は小夜の中山(掛川市佐夜鹿)で激戦となった。この戦いで今川頼国が大活躍して反乱軍の大将名越太郎邦時を討ち取り、攻め崩すという大手柄を上げたのである。

この鎧塚はこの戦いで今川頼国が討ち取った名越邦時の遺骸を葬ったところと伝えられている。

今川頼国はこの後、相模国湯本の敵要害をかつての義経が一の谷で見せた逆落とし攻撃で打ち破る功績をあげた。さらに相模川の戦いに臨んだが、ついに渡河中に矢二十本を受けて討死した。次男の範満も重病を押して出陣、武蔵国小手さし原の戦いで討死した。兄弟のうち五郎範国が生き残り、今川家を継いだ。

中先代の乱も相模川の戦いをもって勝敗が決し、足利勢は鎌倉を奪回した。後、尊氏と後醍醐天皇の対立が続き、ついには南北朝分裂の時代へと歴史は動いて行く。

建武新制下で遠江国守護であった今川範国は建武五年(1338)には駿河国の守護となり、守護大名今川氏の祖となった。その陰に戦場で手柄を上げ、そして戦場に斃れた一族兄弟の奮闘のあったこと忘れてはならない。


▲鎧塚。

▲鎧塚の前の旧東海道。

▲鎧塚の碑。

▲鎧塚の由来碑。

▲旧東海道と鎧塚。
----備考----
訪問年月日 2021年5月2日
主要参考資料 「駿河今川一族」他

トップページへ遠江国史跡一覧へ