今川城
(いまがわじょう)

市指定史跡

                   西尾市今川町            


▲ 「今川氏發跡地」の碑が建つ今川城跡。今川館、今川砦とも呼ばれている。
いずれにしても堀と土塁を廻らした居館城であったと思われる。

今川氏発祥の地

 室町幕府を開いた足利尊氏は、承久の乱(1221)の活躍で下野国足利の地に加えて三河守護となった足利義氏の六代目にあたる。その足利義氏は八幡太郎義家の孫義康が足利を氏としてから三代目の当主であった。
 義氏には長氏、泰氏、義継の子があった。足利の惣領となったのは次男の泰氏で、長男の長氏は三河吉良荘を与えられた。次男の泰氏が惣領となったのは執権北条泰時の娘が母であったからである。長氏が長男でありながら庶流となったのは母の出自の違いでそうなったのである。
 長氏は吉良荘西条に城館を構えて吉良を氏とした。そして三男義継も吉良荘東条に城館を構えて吉良を名乗った。
 義氏は長男でありながら庶流とされた長氏を不憫に思い、源氏の宝剣「髭切丸」(西尾城本丸の御剣八幡宮に奉納されたと伝わる)と「龍丸」を長氏に与えたという。
 そして長氏の子が満氏、国氏である。吉良西条は長男満氏が継ぎ、次男国氏は父長氏の隠居地である今川荘を継いだ。
 国氏は今川を氏とした。父長氏はおのれの隠居地を与えるとともに宝剣「龍丸」を国氏に与えたという。その後の今川家の嫡子の幼名は龍王丸であるが、それはこの宝剣の名からきていると言われている。
「御所(足利家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」
 と後に言われるようになった背景にはこうした宝剣伝説も一役買っているようだ。
 国氏には四人の男子があった。基氏、常氏、俊氏、政氏である。今川を継いだのは長男基氏で、その弟たちはそれぞれ関口、入野、木田を名乗って別家をたてた。
 二代目基氏にも四人(五人ともいう)の男子があった。頼国、範満、法忻、範国である。兄弟のうち法忻は出家して鎌倉の円覚寺や建長寺などの住持をつとめた高僧の仏満禅師である。
 建武二年(1335)、鎌倉幕府最後の執権北条高時の遺児時行が反乱を起こした。中先代の乱である。信濃で挙兵した時行らはわずか十日で鎌倉を占拠してしまったのである。
 頼国ら今川兄弟は鎌倉奪還の足利尊氏軍に馳せ参じた。長男頼国は遠江小夜の中山で敵の大将名越邦時を討取る功名をあげた。頼国の先陣での戦いは凄まじかったが鎌倉を目前にした相模川の合戦で討死してしまった。そして範満も武蔵国内の戦場で討死したという。
 その後、足利尊氏と後醍醐天皇との衝突による戦いが続いたが、この間に生き残って今川を継いだ範国は遠江守護となり、次いで駿河守護となった。
 今川荘三カ村の小領主から一国の守護となった今川氏は戦国期には駿河・遠江・三河を領する戦国大名にまで成長した。

▲ 史跡内の今川了俊の墓。了俊は範国の次男で、遠江守護や九州探題をつとめ、文武に秀でた武将であった。この墓は江戸時代の延享二年(1745)に建てられたというから、西尾藩主土井利信のときである。
 範国は駿河守護となったことで一般的には今川家の初代とされているが、正確には三代目である。
 現在、その古跡はフェンスで囲まれた小さな緑地で、「今川氏發跡地」の碑が建つのみである。そこにたたずんでいると、遠いむかしにこの館から戦場に出陣した今川兄弟とその家臣たちの勇ましい姿が彷彿される。そして一族発展のために死にものぐるいで戦い、散っていった兄弟や家臣たちがいたことを、この古跡は伝え続けている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/06

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