西尾城
(にしおじょう)

                   西尾市錦城町            


▲ 西尾城本丸に建つ「丑寅櫓」。城内の最高所に建っている。西尾城の場合、天守閣
は二の丸に建てられていた。この櫓は平成8年(1996)、木造により復元された。

西尾六万石の城

 西尾城と呼ばれる城ができたのは、どうやら戦国時代のことであったようだ。
 一般的には鎌倉時代の承久三年(1221)に承久の乱の戦功で三河守護となった足利義氏が吉良荘を私領とし、長男長氏に西条城を三男義継に東条城を与えたといわれ、長氏の西条城がこの西尾城の前身であったといわれている。長氏は吉良荘の地頭として土着し、吉良を姓とした。
 西条、東条というのは吉良荘が矢作川(現在の矢作古川)の東西に広がっていたことから川の東西ということで呼ばれるようになったのである。
 その後代々続いて戦国時代ともなると、西条・東条の吉良氏は互いに争いを繰り返していた。この内部抗争で吉良氏はその力を消耗し続け、そのために戦国武将化して他地域への所領拡大に乗り出すことはなかった。
 天文十八年(1549)、松平氏(岡崎城)を従えた今川勢が安祥城の織田勢を攻めて、織田信広(信長の兄)を生け捕りにした。今川氏の版図はこの時点で駿河・遠江・三河の三ヶ国に及んでいたのである。足利一門の家格の高さでは今川家よりも吉良家の方が上であったが、実力では足元にも及ばなくなっていた。
 この時、今川氏は吉良氏をも支配下に置いたようで、西条吉良十四代義昭は今川氏の命で東条吉良氏の領分も併せ持つことになったといわれている。
 さて、この時まで西条城の歴史は三百年以上に及んでいるが、その城地はここ西尾城の地ではなく西野町(西尾市上町)にあったといわれている(「三河誌」等)。ここには初代長氏の隠居所である丸山御所が築かれたと伝わるところでもある。そして別城が築かれて吉良家の部将が置かれたという。この別城というのが西尾城の地なのだという。
 吉良氏を勢力下に置いた今川氏は東三河牛久保城の牧野氏を吉良に差し向け、西三河防衛の一端を担わせた。牧野氏は先の別城を改修して城塞化したものと思われる。
 平成二十年(2008)の二の丸発掘調査では二度にわたる堀の掘削があったことを確認している。二度目に掘られた堀は障子堀というもので、枡状になったものである。牧野氏による改修工事で掘られたものなのか、その後の徳川方によって掘られたものなのかは残念ながら分からないが、ともかく戦国の城としての西尾城の歴史は今川氏の進出によって始まったといえそうである。
 永禄三年(1560)、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれた。これ以後の今川勢力は三河から減退してゆくこととなる。
 永禄四年(1561)五月、東条吉良氏の一門荒川義広(荒川城主/西尾市八ツ面町)の内通により岡崎の松平元康(徳川家康)は酒井雅楽助正親(政家)の軍勢をもって西尾城を攻めさせた。この時、西尾城の守将は牧野成定であった。この戦いで敵わずとみた成定は城を脱して牛久保へ戻ってしまった。酒井正親は西尾城を接収し、家康からその軍功を賞されて城主となった。

▲ 二の丸入口である「鍮石門(ちゅうじゃくもん)」。この呼び名は大給松平氏によって充てられたもので、これ以前は中柵門と呼ばれていた。平成8年の復元である。
 「大神君、臣下に城を玉はるの始なり」(「幡豆郡誌」等)
 ということであり、この時に西尾城と改められたともいわれている。
 正親の子重忠の代の天正十三年(1585)に家康は三河の諸将を動員して西尾城の大改修を行った。この改修で東の丸、帯曲輪が増改築され、二の丸には天守台を築いて三層の天守閣が建てられた。家康は工事が終わると浜松城から祝いに駆けつけ、「鶴城」と名付けた。縁起のよい鶴亀にちなんだものである。
 天正十八年(1590)、家康の関東移封により、酒井重忠も川越城に移った。西尾城は岡崎城主となった豊臣家臣田中吉政の支配下に置かれた。この間に三の丸が拡張されている。
 関ヶ原合戦後、田中吉政は筑後に加増転封となり、慶長六年(1601)に本多康俊(伊奈本多氏)が二万石で西尾城主となった。
 その後、松平成重、本多俊次(康俊の子)と城主が変わり、寛永十五年(1638)に太田資宗が三万五千石で城主となった。
 太田資宗は城下町全体を堀と土塁で囲む惣構えの工事を始めた。工事は次の城主となった井伊直之に受け継がれ、明暦元年(1655)に完成した。
 井伊氏の後、増山正利、正弥と二代続き、さらに土井利長、利意、利庸、利信と四代、三浦義理、明次と二代続いた。
 明和元年(1764)、松平乗祐が六万石で西尾城主となった。三河では吉田藩(吉田城)七万石に次ぐ大藩となったことになる。この松平氏は大給松平氏で、以後五代続いて明治を迎えた。
 最後の城主松平乗秩(のりつね)は幕末維新時には他の三河諸藩と同じく新政府に帰順、明治二年(1869)版籍奉還を願い出た。
 城の解体作業も急いで行われたようで、新政府から「その儀に及ばず」の達しが出たときにはほとんどの解体が済んでいたといわれている。
▲ 歴史公園として整備された二の丸の土塁。
▲ 平成7年に二の丸跡に移築された旧近衛邸。江戸後期、島津家によって建てられたものである。

▲ 二の丸から土橋を渡ると本丸である。これは本丸入口の土塁である。

▲ 本丸の御剣八幡宮。西条城築城時に足利義氏が城内に移したと伝えられている。ここには源氏の宝剣「髭切丸」が義氏によって納められた。

▲ 丑寅櫓への通路。明治に入ってからの城の取り壊しは徹底的に進められ、天守台や諸櫓の石垣まで跡形もなくなってしまったが、御剣八幡宮のあった関係でこの櫓台だけは残されていた。

▲ 本丸に建つ「西尾城址」の碑。

▲ 丑寅櫓前の内堀。

▲ 本丸の東側は姫丸と呼ばれる曲輪となっている。これはその辰巳櫓の跡である。往時の面影は残っていない。

▲ 姫丸跡に建てられた西尾市資料館。西尾城関連の出版物が豊富に揃っている。
----備考----
画像の撮影時期*2009/06

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