本坂居館
(ほんざかきょかん)

                   浜松市北区三ケ日町本坂        


▲本坂居館は戦国期に本坂道(姫街道)を押さえた本坂後藤氏の居館跡と見られている。
(写真・大月寺北側の高台)

本坂の関守

 永正の頃(1504-1521)、浜名湖北を勢力基盤とする佐久城主浜名氏に属し、本坂道を押さえて日比沢城を築いたのが後藤氏である。その後、後藤氏は浜名氏と共に今川氏に属した。

日比沢を根拠地とした後藤氏であったが、その一類は本坂道(姫街道)の峠近くに居館を構えて街道の要所を押さえ、本坂後藤氏と呼ばれた。当然、地理的関係から峠の向こう側である三河の情勢はいち早く正確に把握していたものであろう。

永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討たれた後、東三河及び遠江の国人衆の今川氏離れ(三州錯乱、遠州惣劇)が進んだ。

この当時の本坂後藤氏を代表する者として後藤角兵衛実久の名が登場する。実久は三河岡崎城主徳川家康が東三河平定を進める段階でいち早くその麾下に参じていたと言われ、永禄十一年(1568)十二月の家康遠州討入りに際してはその御手先(道案内)を勤めている。

翌年(1569)二月、徳川勢の佐久城攻撃により、浜名氏は甲州へ退転、その浜名氏に従っていた日比沢城の後藤直正は徳川の軍門に降った。しかし、徳川方に直正を許すつもりはなかったのか、家康の陣所前で下馬しなかったことを咎められ、鉄砲で射殺されてしまった。

家康は城主を失った日比沢城を本坂の後藤実久に与えてその功に報いた。天正十八年(1590)の家康関東入りに際しては後藤実久もそれに従い、武蔵国笠井川越にて三百石を与えられ、日比沢城は廃された。

慶長五年(1600)の関ケ原合戦後、後藤実久は旧領本坂への復帰を認められ、本坂の関守の任に就いたとされる。その後、実久は子の兵庫に家督と本坂関所番の任を譲り、隠居した。

元和五年(1619)、後藤兵庫は徳川頼宣付きとなり、紀州和歌山へ移る。父実久も兵庫に従い紀州へ移り住んだ。本坂関所は気賀(北区細江町)に関所が設置されたことにより気賀近藤氏の管轄下に置かれたものと思われる。

ところでこの本坂後藤氏の居館地であるが明確な位置が特定されているわけではないのである。ここ大月寺の建つ部分が本坂居館として多く紹介されているが、あくまで土豪後藤氏の居住地として相応しいとされているに過ぎないのである。それでも近年までは城館としての遺構である石垣、堀、土居などが確認されており、本坂後藤氏関係の有力者によるものと見られてはいたが、現在は大月寺周辺はすべてミカン園化され、地形も変化して先の遺構を確認することは難しくなっている。


▲大月寺とその駐車場。周辺はミカン園と化して地形も変化していると思われる。

▲郭の北側には石垣が見られたというが、現状は破壊されつつあるようだ。

▲本坂関所跡。

▲本坂関所跡の説明板。

▲国道362号の南側に並行する旧姫街道。

▲大月寺入口。

▲大月寺。江戸期の延享二年(1745)八月、郭内に移遷建立されたという。

▲大月寺本堂。

▲本堂西側の墓地は一段高くなっている。

▲大月寺の北側。ミカン園が迫っている。

▲東側もミカン園。かつては堀、石垣があったらしい。

▲西側は川が流れ、郭は断崖となっている。

▲城館資料には「北側60m石垣で囲い」とあるが現状では確認できない。石が散乱しているが石垣の残骸なのであろうか。

▲大月寺付近から本坂峠方面。山並の向こう側は三河国である。
―備考―
再訪年月日 2021年4月11日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」

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