■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2018

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。

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8月18日(土)晴/京都御所(京都市)

 京都へ家族で一泊旅行。いつもならコースの中に城跡を入れるのだが、今回は大河ドラマ「西郷どん」の影響で娘から京都御所と寺田屋に寄りたいとの申し出があり、訪城なしとなった。無論、城跡だけが史跡ではないので私に不満のあろうはずはない。天気は快晴、気温は高いがなんとなく秋の空気が感じられた。

 京都御所は現在の京都御苑の内にある。京都御苑は国が設置・管理する国民公園とされ、皇居外苑や新宿御苑がこれにあたる。

 駐車場は御苑西側の中立売御門内と東側の清和院御門前にある。御所内の見学のみであれば中立売御門側に車を停めた方が楽であるが、御所の周囲を見て回るのであれば東側の清和院御門前の駐車場に停めた方がよいと思う。

 炎天下であったが清和院御門から御苑内に入り、歩き始めた。左側に仙洞御所の傾斜した築地塀が続く。まるで平安絵巻の中の殿上人を乗せた牛車が現れてきそうな光景である。

 しばらくすると京都御所東側の築地塀に突き当たる。やや右手に建春門が見える。御所南側の築地塀に沿って歩くと建礼門が現れる。天皇のみが使用する門である。

 御所南辺の築地塀に沿って西へ、そして御所西南角の所に大きな椋の木が茂っている。「清水谷家の椋」と呼ばれる大木である。禁門の変(元治元年/1864)の際に御所に迫った長州藩遊撃隊長来島又兵衛がこの付近で戦死したとされている。

 この椋の大木の先に「蛤御門」が見える。禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれるように長州勢と御所を守る会津・桑名両藩の兵が戦闘を開始したところである。当時と現在の御門の位置は違うが、門扉や柱の所々に弾痕が残っており、戦いの跡を今に残している。

 さあ、いよいよ御所内へと向かう。以前は見学するのに予約が必要であったのが2年前から諸行事に支障がない日であればいつでも一般公開されている。御所への出入り口は西側の清所門のみである。当然、門には皇宮護衛官が警備についている。門を入ると手荷物を検査される。バックは中を開けて見せなければならない。

 御所内の見学コースは決められているので自由勝手に歩き回ることはできない。引率説明も午前と午後各二回行われている。コースは御所の南半分を巡るように設定されている。御車寄、諸大夫の間、紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿を眺めながら一巡する。平安様式で建てられている建物を見ていると中国の王宮のような壮大で豪奢なものと違って簡素ではあるが、そこに漂う清々しさが心地よく感じられる。日本人特有の感覚なのかもしれない。

 再び清所門から外へ出る。見学者向けの休憩所で冷たいお茶を飲んで休息。娘たちや孫もいくぶん日焼けしたように見える。御所内も御苑内も地面には白い砕石が敷き詰められており、その照り返しも半端なものではなかったようだ。

↑京都御所の築地塀

↑清水谷家の椋

↑蛤御門

↑紫宸殿
8月16日(木)晴/泉頭城(静岡県駿東郡清水町)

 国道1号線沿いにある柿田川公園は富士山の湧水地として知られ、名水百選にも選ばれている。柿田川の水源地であるここには各所で地下から水が湧き上がる様子が見られるようになっている。

 この湧水によっていくつかの洞が形成され、川が流れ、湿地が広がった。そうした地形を生かしてかつてここに城砦が築かれたことを知る人はそう多くないものと思われる。

 戦国期、小田原の後北条氏が甲斐の武田氏との抗争に備えてここに城を構えたのがこの城の始まりとされる。近くの戸倉城と連携して駿豆国境を固める城として重きを成したが、戸倉城の寝返りによって泉頭城は最前線の城となったがよく持ちこたえた。豊臣秀吉の小田原征伐時、後北条氏は山中城と韮山城に兵力を集中させるためにこの城を破却した。

 大坂の陣後、天下が落ち着いた頃、徳川家康は隠居所としての城をここに築こうと計画したらしいがその死によって実現しなかったということである。

 現在では湧水地付近が公園化され、その周辺も宅地化・市街化して遺構の大半が改変・消滅してしまっているようだ。それでも公園内を散策すれば空堀跡や曲輪跡などが散見できる。

↑本曲輪南端の船付曲輪と柿田川

↑西曲輪南端の貴船神社
7月29日(日)曇/飫肥城(宮崎県日南市)

 例年の鹿児島への墓参。今年は県境を越え、初めて宮崎県に入り、日南市の飫肥城へ寄った。

 飫肥城の歴史は南北朝時代に遡るが、やはり戦国期に入ってからの島津氏と伊藤氏による争奪の歴史が目を引く。はじめ島津氏が伊藤氏の南下に備えたが、伊藤氏の制する城となり、次いで再び島津氏のものとなった。豊臣秀吉の九州征伐に従った伊藤氏が再び飫肥城に入城して以後廃藩まで続くことになる。最初の抗争から伊藤氏の再入城まで実に百年以上に及ぶ争奪戦が繰り返されたことになる。

 城址入口には昭和53年(1978)復元の大手門が構えている。門をくぐると枡形である。周囲には侵入者を狙う鉄砲狭間が死角なく巡らされている。さらに城内を進むと再び枡形だ。新本丸直前の虎口である。新本丸そのものは現在小学校の校庭となっている。虎口右手には歴史資料館が建っており飫肥藩伊藤家の史料が展示されている。
 次に松尾丸に向かう。急で長い石段を登りきると御殿風の建物が建っている。昭和54年(1979)にイメージ復元された書院造りの御殿である。
 続いて旧本丸の案内に従って歩を進める。石段を上がりながら二度方向転換させられる。枡形である。苔むした石垣が歴史的風情を漂わせている。来てよかったと思わせる空間だ。

 飫肥城址の周辺には武家屋敷の石垣が残り、閑静な時代的風景を味わうことができる。見学者用の駐車場も整備され、蔵造りのお店では名物の飫肥天(薩摩揚げに近い)を食べさせてくれる。

↑飫肥城 大手門。

↑旧本丸枡形。
5月3日(木)晴/高松城、屋嶋城(高松市)

 朝食を早々と済ませて7時半には高松城の駐車場に到着していた

 高松城は天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正によって築城が進められ、瀬戸内海の海水を引き込んだ水城である。徳川時代に御家騒動が原因で讃岐一国を没収されるまで生駒氏が4代続いた。

 寛永19年(1642)に徳川家康の孫にあたる松平頼重が東讃岐12万石(西讃岐は丸亀藩となる)として入部し、高松藩が成立した。以後、11代続いて明治に至る。

 現在の高松城跡(玉藻公園)は往時の規模の1/8ほどと言われており、散策するのもさほどの時間を要しない。のんびり歩いても1時間もあれば十分である。この城跡には二つの隅櫓が文化財として現存している。艮櫓(移築)と月見櫓である。三重の櫓であるから立派なものである。天守は残っていないが天守台は修復を終えてその堅牢さを水面に映し出していた。

 高松城を後にして源平合戦で有名な屋島へ向かった。平家物語における那須与一の「扇の的」はあまりにも有名な逸話である。

 源平合戦の話はさておいて、屋島には古代山城が築かれていたのである。昨日寄った鬼ノ城と同年代、同目的で大和朝廷によって築かれた山城なのである。屋嶋城は日本書紀にも記されている城なので、読み方は「やしまのき」とするのが正しいらしい。

 登城するには山上まで屋島ドライブウェイ(無料)が通じており、大駐車場(有料)と休憩所などが完備されているので有難い。ドライブウェイ手前で屋島の頂上を見上げると比高300mほどの急峻な山容が迫って見える。徒歩登山では一時間ほどで山上に達するようだが、体力に自信のない私にはとても無理である。

 山上駐車場からさっそく屋嶋城の復元城門へと向かいたいのだがどう行けばよいのか分からない。水族館や屋島寺への看板はあるが、城門への看板がないのである。観光の人々は皆屋島寺へと吸い込まれて行くが私の目的は城門なのである。屋島寺の門前でどうしようかとウロウロしていたら小さな案内板があった。「屋嶋城跡城門←700m」とある。誰もそちらに行く人はいない。まぁ、そのほうが色々と思案するには都合がいい。

 復元された城門は一ヶ所である。古代山城としての全貌はうかがい知ることはできないが、鬼ノ城と同規模のものであった可能性があろうと思われる。

 時間は10時近くになっている。GWということで高速道路の渋滞が気にかかるので早々に帰路につくことにした。

↑高松城 艮櫓

↑高松城 月見櫓

↑屋嶋城

↑屋嶋城
5月2日(水)曇時々小雨/鬼ノ城(総社市)、下津井城(倉敷市)、丸亀城(丸亀市)

 前日の夜発ちで高速道路を岡山へと向かった。適当にSAにて仮眠の後、早朝に岡山県総社市の鬼ノ城へと車を進めた。

 鬼ノ城は「きのじょう」と呼ぶ。白村江の戦い(663)で唐・新羅に敗れた大和朝廷が唐・新羅による倭(日本)侵攻を防ぐために瀬戸内各地に築いた山城のひとつであるとみられている。山城といっても中世の山城とは規模も構造も全く違う。山上全体を石垣や版築土塁の城壁で囲み、要所に門を設けた朝鮮式山城の形態なのである。従来、神籠石山城とか朝鮮式山城と呼ばれていたものが最近では古代山城と呼ばれるようになっているらしい。おそらくは唐・新羅に追われた百済人たちの技術指導があったものと思われる。

 いったいどれほどの兵士たちが常駐していたのだろうか。北九州に配備された防人の任期が三年と言われているから、この城にも各地から徴集された兵士が数年間故郷を偲び、家族のことを思いつつ任務に就いていたのだろう。

 鬼城山ビジターセンター駐車場から復元された西門へ、そして最東端の屏風折れの石垣まで往復1時間半(約4km)ほど歩いた。その間、私も家族のことを改めて思い直す時間を得ることができた。貴重な城歩きであった。

 予報では午後より雨となっている。時計はまだ8時を過ぎたばかりだ。曇空ではあるがまだ雨は降りそうにない。予定より行動が早かったので四国に渡る前に倉敷市の下津井城に寄ることにした。

 下津井城は豊臣期の文禄年間(1592-96)に宇喜多秀家によって城郭化され、寛永16年(1639)に廃城となった。近世城郭としては短命な城であった。宇喜多氏の後、小早川そして池田氏へと城主が替わったが、いずれも瀬戸内海監視のための要害として重要視されたものと思われる。

 現在では瀬戸大橋架橋記念公園として整備され、遊歩道や駐車場などが設置されている。遊歩道に従って西の丸から本丸へと散策した。崩れかけた石塁(石垣)が廃城後の時の流れを感じさせてくれる。本丸には天守台跡が残っているが、それほど規模の大きいものではない。全体的に中途半端な印象を受けた。

 さて、いよいよ瀬戸大橋を南下して四国へ入る。小雨交じりの空模様となってしまった。瀬戸大橋を渡って丸亀市内へと車を進めた。目的地は丸亀城である。

 丸亀城は慶長2年(1597)に生駒親正によって築かれ、元和1年(1615)には一旦廃城となっている。その後、寛永20年(1643)に山崎家治が封じられて城の再築がはじまった。万治1年(1658)、京極高和が丸亀藩主として入部、翌年には天守が完成している。以後、京極氏が7代続いて明治に至った。

 丸亀城の天守は京極氏によって建てられた現存の木造天守である。三層と小振りながら四国では最も古い現存天守となっている。また高石垣で幾重にも築かれたこの城を眺めると「石の城」と形容されるのもよくわかる。

 雨もそれほどのものでもなく、丸亀城の散策に支障をきたすほどでもなかったが、高松市へ向かう途中から雨が降ったり止んだりの状況となってきた。予報では明朝には晴れることになっている。時間はまだ早いが、早々にチェックインして高松城の散策を明朝とすることにした。

↑鬼ノ城 西門



↑鬼ノ城 版築土塁

↑下津井城

↑丸亀城 天守

丸亀城 二の丸高石垣
4月28日(土)晴/北条執権邸(鎌倉市)

 今年のGW前半は家族旅行で鎌倉へと向かった。あくまで家族優先の旅なので私個人の城館旅が目的ではないのは言うまでもない。それでも武士の都鎌倉に行くのであるから少しくらいは私の趣味を入れても良いだろうと思い、鶴岡八幡宮近くの宝戒寺へ足を延ばさせてもらった。

 宝戒寺はごく普通のひっそりとした寺院である。たくさんの観光客でにぎわう鶴岡八幡宮とは対照的に訪れる人もまばらである。鶴岡八幡宮三の鳥居前の路を東へ250mほど行った突き当りが宝戒寺である。

 短い参道の左側に「北条執権邸舊蹟」の石碑が建っている。舊蹟は旧跡である。かつて権勢を誇った執権北条氏の館が当地にあったということである。そしてその北条氏最期の地となったことでも知られるところである。

 元弘三年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を奉じた新田義貞の大軍によって鎌倉は戦場となり、執権北条高時とその一族はここ執権邸に火を放って背後(約300m)の東勝寺に退いた。この時点で一族の滅亡を悟り、ことごとくが自刃して果てた。その数二百八十三人であったという。

 現在、東勝寺跡は国指定史跡となり、柵内への立ち入りはできない。ここの東側に腹切りやぐらと呼ばれる洞穴がある。鎌倉では幾つもの洞穴があり、やぐらと呼ばれているのだ。腹切りやぐらには多数の卒塔婆が立てられており、北条一族の無念を弔っているようである。

 戦後、後醍醐天皇が北条氏の鎮魂のために足利尊氏に命じて執権邸跡に一寺を建立させたという。それが宝戒寺なのである。残念ながら執権邸を偲ばせる遺構は何一つ残ってはない。先の石碑が建つのみである。

↑宝戒寺に建つ北条執権邸跡の碑

↑腹切やぐら
1月3日(水)晴/姫路城御着城英賀城(姫路市)、龍野城(たつの市)

 恒例となった年頭訪城、今年は姫路城からはじまった。姫路城の入城開始時間の9時に合わせて浜松を未明の3時半出発した。高速道路の渋滞も無く、予定通りに到着した。久しぶりの訪城に相棒のトモ坊も興奮ぎみである。

 姫路城は今までに幾度となく訪れているのだが、HPアップ目的での登城は遅ればせながら今回が初めてである。大阪付近では雨に降られたが、姫路は快晴である。さっそく入城口に並んで開城を待つ。すでに開城待ちの列が出来ている。

 今回は天守内部に入るつもりはなかったのであるが、人の流れに呑まれるようにして入ってしまった。写真を撮りながらマイペースで、というわけには行かない。時間をずらした方が良かったと後悔したが、仕方がない。天守を出てからコースを逆走するかたちでカメラのシャッターを切る。あの入城時の人の流れがぷっつりと途切れている。

 一通り観覧順路となっている部分を足早に回って、西の丸へ向かう。私は西の丸から撮影した天守が一番美しいと思っている。青い空に白亜の天守が映えて最高に美しい。

 時計を見ると滞在予定時間の1時間半が迫っている。くまなく歩き回れば半日は時間が欲しいところだが他の城にも行きたいので切り上げて駐車場へと戻った。

 次に向かうのは御着城である。姫路城は播磨守護赤松氏によって築かれ、後に一族の小寺氏、次いでその家臣黒田氏が城主をつとめたが、その黒田氏の主家である小寺氏が居城としたのが御着城である。

 御着城は姫路城の東約5kmの場所である。現在は公園となって石碑などが建つだけだが、かつては守護赤松氏の守護所としての機能を有していたと言われている。近くには黒田家廟所があり、黒田官兵衛の祖父と生母が祀られている。

 御着城の西約12kmに英賀城がある。英賀城は海と川に囲まれた天然の要塞であったらしい。戦国期には三木氏の城として発展した。この城も宅地化と市街化で遺構の殆どが消滅してしまっている。わずかに英賀神社内に土塁跡が残る程度である。

 次に向かったのは龍野城である。英賀城から車で約30分の距離である。

 龍野城も赤松氏の城である。戦国期には現在の龍野城址の裏山である鶏籠山山頂に築かれた山城であった。それが羽柴秀吉の播磨進出によって開城させられ、破却されたとされる。江戸期に入って、京極氏によって山麓部に城郭が築かれた。これも京極氏移転によって一旦破却されたが、後に脇坂氏の入部によって再興された。すでに泰平の世であり、幕府に遠慮して御殿様式の城として整備されたものである。現在は御殿、城門、隅櫓(模擬)などが再建されている。

 さて、帰路である。中国道や名神、新名神ではすでに渋滞が発生している。渋滞は遠回りしてでも避けたい。舞鶴若狭道、北陸道経由で帰ることにした。ところが日本列島の天候は場所によって大きく異なる。若狭道から敦賀、関ケ原付近では雪に見舞われた。ノーマルタイヤであったが何とか走り抜けることができてよかったが、冬場の遠出では要注意である。

↑姫路城 大手口

↑姫路城 西の丸から見た天守

↑御着城 城址碑

↑英賀城 土塁

↑龍野城 模擬櫓