屋嶋城
(やしまのき)

国指定史跡

            香川県高松市屋島東町    


▲屋嶋城は飛鳥時代(天智期)に築かれた一連の朝鮮式山城のひとつである。地理的に
は瀬戸内海を東進する敵水軍を阻止するための目的をもっていたものと思われる。
(写真・復元された城門地区の城壁。)

大和防衛の防波堤

 屋島と言えば源平合戦で有名な「屋島の戦い」の舞台となった場所である。寿永四年(1185)、那須与一の扇の的、源義経の弓流しの逸話でよく知られているが、それより五百年以上の昔にここ屋島に大規模な城が築かれた。天智天皇六年(667)に屋嶋城が築かれたことが日本書紀に記されているのである。平氏の公達や源氏の武者たちがこの城跡を目にしたのかは分からないが。

 屋嶋城が築かれる四年前(663)、百済復興支援のために渡海した大和朝廷の軍は唐と新羅の連合軍と激しく戦い、白村江の戦いで大敗を喫してしまった。百済復興に失敗した朝廷は朝鮮半島から撤収すると国土防衛のための城塞の築城を各所に展開することになる。

 現在ではこの時期に築かれた城を朝鮮式山城と呼び、史書に記載のない神籠石系山城とともに古代山城として総称されている。戦国期に発達した山城とは全く築城様式が違い、規模も大規模である。山上を巡る城壁は全長7kmに及ぶと見られ、懸門(けんもん/通常は梯子を架けて門内に入り、戦闘時にはこれを外す)や甕城(おうじょう/後の枡形に相当する)の施設は朝鮮半島で発達した城の形体であり、朝廷軍の半島撤収時に随伴した百済の将軍や技術者が屋嶋城などの古代山城の築城に関わっていたことをうかがわせている。

 大和朝廷の中大兄皇子(668に即位して天智天皇)は白村江の戦い後、対馬や北九州、瀬戸内海沿岸にかけて防衛拠点となる築城を実施し、その城跡は現在28ヵ所あるとされている。屋嶋城は瀬戸内海の東部に位置しており、畿内への抜ける最終関門ともいうべき要所である。唐・新羅の水軍の進撃を阻止するための防波堤という重要な役割を担っていたものと思われるがどうであろうか。

 現在では屋島南嶺の南部に城門跡が復元整備されて往時の姿を訪問者に見せているが、その崩れた石積みが発見されたのは平成10年(1998)であるから屋嶋城の実在が明確になったのは最近のことなのである。いまだ全貌が明らかになった訳ではなく、今後も新たな発見が期待できる城跡である。

▲城門地区。復元された城壁の石積み。屋嶋城の全貌はいまだ解明されておらず、他にも城門が築かれていた可能性は十分考えられる。

▲城門内側の「甕城(おうじょう)」と呼ばれる造りになっており、侵入した敵兵の行く手を阻んで迎え撃つための城壁が半円状に築かれている。後の枡形に相当する構造である。

▲城門地区のある屋島南嶺の遠景。

▲屋島ドライブウェイから見た源平屋島古戦場跡。対岸の山並は五剣山。

▲屋島寺門前に立つ城門跡への案内板。

▲屋島寺前から城門跡へ。

▲屋島南嶺の案内図。

▲城門跡入口。屋島寺前から約10分。

▲復元公開されている城門地区。屋嶋城全体のほんの一部分に過ぎない。今後の調査研究の進展が期待される。

▲城門部分。柱穴は4ヵ所確認されたという。床面は階段状の石敷き。

▲城壁前面部分。

▲城門跡。

▲城門床下の排水口。

▲城門跡からの展望。高松市街地が一望できる。

▲平成10年(1998)に発見された当時の石積み。

▲城門の推定図。城外から門内に入るために通常は梯子が設置されている。「懸門」と呼ばれる造りである。

▲城門地区の復元図。
----備考----
訪問年月日 2018年5月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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