北条執権邸
(ほうじょうしっけんてい)

            神奈川県鎌倉市小町3    


▲北条執権邸は鎌倉幕府二代執権北条義時の代に造営されたもので、その後は北条
得宗家の執権が居所とした。鎌倉幕府滅亡の時、得宗家最後の執権であった北条高時は
迫りくる新田義貞の軍勢の前でこの屋敷に火を放って退去し、一門共々自刃して果てた。
(写真・北条執権邸跡に建立された宝戒寺。)

執権北条氏滅亡の時

 鎌倉武士の崇敬を集めた鶴岡八幡宮は現在でも多くの観光客が訪れている。その三の鳥居から東へ向かうと突き当りに閑静な寺院がひっそりと建っている。宝戒寺である。この寺の参道脇に「北條執権邸舊蹟」(北条執権邸旧跡)と刻まれた石碑が建っている。

 かつてここに鎌倉幕府を担った執権北条氏の邸宅が置かれていた。通常、小町亭と呼ばれたものである。碑文には「往時此ノ地ニ北条氏ノ小町亭アリ義時以後累代ノ執権概ネ皆之ニ住セリ…」とある。義時は初代執権北条時政の嫡男でその後累代の執権(得宗家)が当所に住した。

 碑文は続く。「…彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴莚ヲ張リ時ニ田楽法師ニ対シ列坐ノ宗族巨室ト倶ニ直垂大口ヲ争ヒ解キテ纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ…」と。相模入道とは十四代執権北条相模守高時のことである。得宗家としての最後の執権であり、彼の最期が鎌倉幕府の滅亡となったことは歴史的事実なのである。

 高時は正和五年(1316)に十四歳で執権となったが、十年後に執権を辞して出家してしまう。病弱であったためと言われているが、すでに執権職そのものが形骸化しており、実権は補佐役の御内人と呼ばれる重臣らに握られていた。したがって高時自身が政務に関与することもなく、田楽や闘犬に夢中になっていたようだ。碑文のように田楽舞の宴会を頻繁に催し、褒美の山を築いて遊興に耽っていたというのも頷ける。

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山(笠置城)に討幕の狼煙を挙げた。元弘の乱である。一旦は鎮圧したかに見えた反乱であったが、元弘三年(1333)には隠岐を脱した後醍醐天皇が再び挙兵した。御家人の足利尊氏や新田義貞らも天皇方に付いて幕府に敵対した。もはや討幕の流れは止めようもなく関東に於いては新田義貞の軍勢が怒涛の勢いで幕府軍を打ち破り鎌倉に迫った。

 さらに碑文は続く「…元弘三年新田義貞乱入ノ際灰塵ニ帰ス…」。稲村ケ崎の波打ち際を突破した新田義貞とその軍勢は鎌倉府内に乱入して各所で幕府軍を打ち破り、諸所に放火した。小町亭の高時は一族重臣らと共に裏山の氏寺東勝寺へ移動した。東勝寺は城郭的機能も備えていたと考えられており、一時的にも新田勢の攻撃を食い止めることができたのであろう。この間に高時以下一族門葉八百七十余人が燃え盛る鎌倉を望見しつつ自刃して果てた。

 碑文は最後に「…今ノ宝戒寺ハ建武二年足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂忌祭ノ為北条氏の菩提寺東勝寺を此ノ亭ノ故址ニ再興シ以テ其ノ号ヲ改メシモノナリ」と締めくくっている。北条氏滅亡後の建武二年(1335)、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏によって北条一門の慰霊のために小町亭跡に東勝寺を再興させ、名を宝戒寺と改めて建立され、現在に至っているのである。

▲宝戒寺参道脇に建てられた「北条執権邸旧蹟」の碑。

▲東勝寺跡の「腹切やぐら」。北条高時以下一族門葉八百七十余人が自刃したという。

▲鶴岡八幡宮三の鳥居前の通りを東へ200mほど行くと突き当りが宝戒寺の入口である。

▲宝戒寺参道入口。右に「鎌倉大聖天」、左に「天台宗円頓宝戒寺」の石柱が建つ。

▲参道左側に「北条執権邸旧蹟」の碑が建っている。

▲宝戒寺の南東400mほどに東勝寺跡がある。

▲東勝寺跡は国指定史跡となっている。

▲鎌倉が新田義貞の軍勢に蹂躙された日、北条一門は執権邸を焼き払ってこの東勝寺へ退いた。

▲東勝寺跡の路を奥へ行くと祇園山ハイキングコースの入口となり山道となっている。

▲その入口左側に「東勝寺旧蹟」の碑と「腹切やぐら」の案内板が立っている。板には「霊処浄域につき参拝以外の立入を禁」と書かれている。

▲北条一門が自刃して果てたというやぐら。鎌倉には幾つもの洞穴があり、「やぐら」と呼ばれている。やぐらの中には無数の卒塔婆が並べられていた。
----備考----
訪問年月日 2018年4月28日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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