英賀城
(あがじょう)

            兵庫県姫路市飾磨区中浜町2    


▲英賀城は瀬戸内海沿岸に築かれた城で港を擁する城であった。城主の
三木氏は水軍で知られる伊予国河野氏の分かれと言われ、戦国期には
織田信長と敵対する石山本願寺を海から支援する行動を見せている。
(写真・英賀神社裏手に残る土塁跡。)

播磨灘の海城

 室町幕府創設に貢献して播磨守護となった赤松円心(則村)から五代目の満祐の時代、永享(1429-41)の頃か、満祐の弟祐尚が英賀の地に城砦を構えたのが英賀城の創始とされている。
  嘉吉元年(1441)、赤松満祐は将軍を弑逆し、居城の城山城(たつの市新宮町下野田)に籠城して幕府軍と戦い滅んだ。嘉吉の乱である。この乱に際して赤松氏に同調する播磨の国人らも城山城に籠り、幕府軍と戦っている。この籠城した国人の中に恋ノ浜城主(姫路市白浜町)である三木氏がいた。
 三木氏は伊予守護河野氏の流れと言われ、三代将軍足利義満の時代に四国讃岐国三木郡を得て地頭となった三木通近を祖としている。その後、通近は兄通昌の播磨国飾東郡の遺領を継ぎ、恋ノ浜を拠点とした。通近の後、三木氏は守護赤松氏との関係を深め、三代通重は赤松満祐の娘を娶っている。
 嘉吉の乱で城山城に籠った三木通重は赤松氏に殉じて討死したが、子の通武は落ち延びて恋ノ浜城に戻り、幕府軍の山名宗全に降伏した。
 嘉吉三年(1443)、三木通武は旧赤松氏の城で海上交通を押さえるのに適した英賀城へ根拠地を移した。この移動が山名宗全の了解があったのか、または通武の独断であったのかは定かでないが、三木氏は海上交易による繁栄の道を見出していたのかも知れない。
 ともかく、通武は英賀城の大改修にとりかかり、播磨灘に面した南側には港を設け、東西は夢前川と水尾川を天然の水堀とし、北側は泥濘地を利用した要害城に造り替えた。城域はかなり広く、城内には重臣屋敷や町屋、商家、寺院などが軒を連ねたようである。後の「海城」や「惣構え」といった概念の先駆をなすものとも言えようか。
 通武の後継、通安の代には応仁の乱(1467)が起きている。この戦乱で細川方に付いて山名氏から領国奪還を果たした赤松氏は置塩城(姫路市夢前町)を本拠とした。当然、通安は赤松氏に帰属して播磨平定に協力した。また、文明七年(1475)頃から浄土真宗が城下に広まり、通安の次代通規も真宗に帰依して城内に英賀御堂が建立(永正九年/1512)された。
 永正十六年(1519)、通秀が家督を継ぐ。彼の時代には下剋上により国内が乱れた時期であった。守護代浦上氏と守護赤松氏の争いであるが、英賀城の三木氏は一貫して赤松氏に従った。
 天文七年(1538)、通秀の子通明の代には尼子氏の侵攻があり、播磨国内は乱れた。
 天文十三年(1544)、通明の嫡男通秋が家督を継ぐ。始祖通近の九代目になる。この頃には赤松氏の勢いも昔日のものとなり、置塩城の赤松本家も御着城の小寺氏の傀儡と化し、播磨は小寺氏、三木城の別所氏、龍野城の赤松(宇野)氏そして英賀の三木氏らが割拠する状況となった。
 永禄十二年(1569)、織田信長によって新将軍となった足利義昭の援軍を得た龍野赤松氏が赤松本家を窮地に陥れようと軍勢を発して小寺氏の支城姫路城に迫った。姫路城の黒田官兵衛孝高は寡兵ながら奮闘し、これに英賀城の三木通秋が加勢して龍野赤松勢を打ち破っている。
 その後、播磨国内の諸将が黒田孝高の奔走により織田信長へ臣従するなか、本願寺門徒である三木氏は信長と対立する道を選んだ。信長の石山本願寺攻めに際しては援軍と共に兵糧三千俵を顕如のもとに送り込んでいる。
 天正五年(1577)、通秋は本願寺を支援する毛利氏の浦宗勝の軍勢五千を海路英賀城に迎えた。ところが、上陸直後を黒田孝高の軍勢に襲われ、あえなく敗退してしまった(英賀合戦)。翌年には三木城の別所長治、御着城の小寺政職らが信長に反旗を翻し、三木通秋は海路より別所氏救援の兵糧や軍兵を送り込んだという。
 天正八年(1580)一月、羽柴秀吉の完全包囲によってついに三木城が落城、別所長治は城兵の助命を条件に自刃して果てた。二月、秀吉は返す刀で英賀城に襲い掛かる。
 泥濘と河川に囲まれた英賀城の戦いは城門付近における小競り合いのみで対峙状態が続いたという。ところが城内に内通者が出て火が放たれ、河下口から秀吉勢を導き入れたので一気に勝敗が決した。血路を開いた通秋は一族を率いて海路九州へと落ち、百四十年五代を繁栄させた城を捨てた。
 天正十年(1582)、通秋と子の通安は秀吉に許されて英賀に戻り、先祖の姓である河野氏を名乗った。その後は郷士として江戸期を生き抜き、明治に至った。


▲「英賀城本丸之跡」の碑。飾磨区中浜町内に建てられている。

▲飾磨区英賀宮町の英賀神社裏手に残る土塁跡。

▲かつて本丸跡の南側は海に面しており、港が設けられていた。

▲本丸跡碑と共に立つ説明板の本丸付近図。

▲同じく本丸跡碑の所に立つ説明板に描かれた城域復元図。

▲英賀神社北側の英賀城公園に建つ「野中口之跡」碑。英賀城には十ヵ所の門口があったとされ、野中口は城内最北端の位置になる。

▲英賀城公園内に造られた石垣。模擬天守または模擬櫓でも建てる計画であったのか。

▲英賀神社裏手に残る土塁跡上に建つ「英賀城土塁」碑。
----備考----
訪問年月日 2018年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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