御着城
(ごちゃくじょう)

市指定史跡(黒田家廟所)

            兵庫県姫路市御国野町御着    


▲御着城は守護赤松氏の内部抗争と尼子氏の侵攻などの戦国乱世を背景にして
赤松家重臣小寺氏によって城郭化されたものである。最後の城主小寺政職は当初
織田方に付いたが後に毛利方に寝返り、城を捨て去ったため城は破却された。
(写真・御着城公園に建つ城址碑。)

官兵衛の活躍の影で

 播磨守護赤松氏の重臣で代々姫山(姫路城)城代をつとめてきた小寺氏がその居城として築いたのが御着城である。城は永正十六年(1519)に小寺政隆によって築かれ、姫山城は子の則職(のりもと)が城代となった。

 この当時、赤松家中では三石城(岡山県備前市三石)の備前守護代である浦上村宗が権勢を奮っており、主君である赤松義村はこれを除こうとして合戦状態となっていた。小寺政隆・則職父子は義村に従って出陣し、浦上方との戦いに臨んだが、戦いは浦上方の優勢が続いた。そうした戦乱の背景があって政隆は姫山城の南東約5kmの地に天川を外堀とする城を築いたのである。

 その後、下剋上を地で行く浦上村宗は赤松義村を捕らえて幽閉、強引に義村の嫡子才松丸(八歳)に家督を譲らせ、その後見となった。大永元年(1521)には幽閉中の義村に刺客を送って暗殺してしまう。浦上 村宗が西播磨と美作、備前の支配者となる一方で主家赤松氏に忠誠を尽くす小寺政隆らは横暴を極める村宗と合戦(大永三年/1523)に及ぶこともあったが適わなかったようだ。

 享禄二年(1529)、小寺政隆は一族の小寺福職の城であった庄山城(御着城の北3km)へ移った。浦上村宗の攻撃に備えたのであろうか。平城の御着城では心もとなかったのであろう。

 享禄三年(1530)、浦上村宗が両細川氏の乱で没落して備前に逃れていた細川高国と結び、上洛の兵を挙げた。高国を奉じた浦上勢は播磨に進撃、高国に対する細川晴元方である別所氏の諸城を攻略してさらに摂津へ軍を進めた。この時、庄山城も浦上勢の攻撃を受けて小寺政隆は防戦も空しく討死、落城してしまう。

  翌年(1531)、京を制して勢いに乗った細川高国と浦上村宗の連合軍は堺を拠点とする細川晴元、足利義維の堺幕府を潰さんと摂津天王寺へ陣を進めた。晴元方には阿波から三好元長、細川持隆の軍勢が駆け付けたため戦線は膠着状態となった。そこへ播磨から赤松政祐(才松丸、後に晴政)と小寺則職らが高国、村宗の援軍として着陣した。ところが、赤松勢は晴元方に通じて背後から高国、村宗の陣に襲い掛かったのである。高国、村宗の軍勢は腹背に攻撃を受けて壊滅、村宗は討死、高国は捕らえられて自害させられた。この戦いを大物崩れと呼ぶ。

 宿敵、浦上村宗を滅ぼした小寺則職は御着城主となり、天文十四年(1545)には隠居して嫡男政職に城を譲った。

 政職は御着城を幾重にも堀を巡らした広大な城へと改修した。その後、三木城と英賀城と並んで播磨三大城郭に数えられるようになる。さらに西播磨に勢力を拡大し、外様の黒田孝高を重用して姫路城主とするなどして主家赤松氏を凌ぐ勢いがあった。

 永禄元年(1558)、政職は主君赤松晴政を追放してその嫡子義祐を立てた。その後、政職は西播磨の支配を進めたが、追放した晴政の娘婿で龍野城主の赤松政秀との対立が続いた。

 永禄十二年(1569)、織田信長によって上洛を果たし、将軍となった足利義昭に通じた赤松政秀は織田の援軍を得て置塩城の赤松義祐に対する攻勢に出た。小寺政職らは置塩城の守備を固めて政秀勢の来襲に備えたが、政秀勢は黒田孝高の姫路城へ迫った。この戦いは黒田勢の奮戦によって赤松政秀の軍勢は総崩れとなり、黒田孝高の武名を上げるきっかけとなった(青山・土器山の戦い)。

 その後、織田信長への接近を勧める黒田孝高の言を入れた政職は天正三年(1575) 赤松広秀(政秀嫡子)、別所長治らを伴って上洛、信長に謁見して従属を決めた。当然、西から迫る毛利勢との抗争は避けられないものとなる。

 しかしながら対毛利戦における黒田孝高の活躍は目覚ましく、政職の西播磨における存在は薄くならざるを得なかったようだ。信長の命を受けて播磨に進出してきた羽柴秀吉は黒田孝高を帷幄の将として頼りにした。

 天正六年(1578)、三木城の別所長治が毛利方に寝返った。さらに摂津有岡城の荒木村重も信長に謀反した。小寺政職もこれを機に毛利氏へ寝返り、御着城に籠って反旗を翻したのである。

 天正七年(1579)、三木城を攻囲中の秀吉は御着城にも軍勢を派遣して周辺を焼き払い迫った。当初は城兵の出戦によって秀吉勢が後退するほどであったようだ。秀吉は黒田孝高の叔父小寺休夢斎に御着開城の手立てを命じたという。形勢不利とみた政職は城を捨てて毛利方へ走り、信長に追放された足利義昭の居る備後鞆の浦(鞆城)に落去したようだ。天正十二年(1584)、死去。長男の氏職は黒田氏に仕え、福岡藩士として代を繋いだ。

 さて、政職が脱した後の御着城である。城には三木城の別所長治の家臣岡本秀治が派遣されていた。政職逃走後は岡本秀治が城将として指揮を執っていたようで、彼は秀吉勢に対して降伏、そして開城して敵対行為をあきらめた。城には秀吉家臣の蜂須賀正勝が入った。

 秀吉の播磨平定後、蜂須賀正勝は龍野城主(五万三千石)となり、御着城は廃された。

▲本丸跡とされる御着城公園内に建つ「黒田官兵衛顕彰碑」。

▲黒田家廟所。黒田官兵衛孝高の祖父重隆と生母明石氏の二人が祀られている。

▲本丸跡は御着城公園として整備されている。

▲公園の案内図。

▲公園北側には姫路市東出張所と公民館の建物が建っている。

▲御着城公園内の様子。

▲公園内に植えられた目薬の木。官兵衛の祖父重隆は目薬の木から目薬を作って財を成したと言われる。

▲公園の西隣にある黒田家廟所。石塀で囲まれている。

▲享和二年(1802)に福岡藩黒田家によって資材を九州から運んで造られた。

▲公園東側のグランドは二の丸にあたる。

▲グランド入口付近に建つ二の丸跡の碑。
----備考----
訪問年月日 2018年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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