鬼ノ城
(きのじょう)

国指定史跡・百名城

            岡山県総社市黒尾    


▲百済を支援した大和朝廷軍が白村江の戦い(663)で唐・新羅の連合軍に
大敗した。その後、朝廷は唐・新羅の侵攻を警戒して九州から瀬戸内海沿岸にかけて
山城を築いた。鬼ノ城はその時に築かれた古代山城のひとつであると見られている。
(写真・学習広場から展望した西門と版築土塁。)

記紀に載らなかった祖国防衛の山城

 日本史の時代区分でいうと奈良時代に入る前の飛鳥時代と呼ばれる時期、日本は大化の改新(645)を経て中央集権国家の体制を整えつつあった。一方、東アジアの情勢は中国を統一した唐による朝鮮半島進出が始まり、高句麗への侵攻と共に新羅を冊封国として百済討伐に乗り出していた。

 斉明天皇六年(660)、大和朝廷との関係が深かった百済が唐と新羅の大軍に攻め込まれて滅亡した。朝廷は百済遺臣の要請に応じて復興救援の出兵に踏み切ることになる。翌年(661)、斉明天皇自ら本営を北九州に構えて第一陣を渡海させたが、急死してしまう。改新以来の実質的な指導者であった中大兄皇子は作戦を続行させ、天智元年(662)には本隊を渡海、天智二年(663)にも第三陣を渡海させた。総勢五万人に近い出兵となったと言われており、かなり大規模な軍事行動であったことがわかる。

 当初は新羅軍を圧倒して善戦したようだったが唐の陸軍と水軍が戦場に現れると戦況は苦しくなり、白村江の水上戦で朝廷軍は完敗を喫してしまった。

 戦後、天智天皇(中大兄皇子)は唐との関係改善を模索するとともに国土防衛の体制を整えることになる。敗戦の翌年(664)には対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ/のろし台)を配備、筑紫に水城を築いて唐の来攻に備え、天智四年(665)筑紫に大野城、基肄城を築き、長門にも築城、天智六年(667)には大和に高安城、讃岐に屋嶋城、対馬に金田城を築いたと「日本書紀」に記されている。

 この当時に築かれた城で文献に記されたものを朝鮮式山城と呼び、文献に記載のないものを神籠石系山城と呼び分けられていたようだが、最近では両者ともに古代山城と称されている。いずれもそのほとんどが瀬戸内海沿岸から九州北部にかけて分布しており、28ヵ所(所在不明含む)あるとされている。 

 この鬼ノ城は文献には記されていなが天智期に築かれた一連の古代山城のひとつとされ、国の史跡に指定され、復元整備が施されている。古代山城は戦国期の山城とは異なり、山頂部分全体を鉢巻状に防塁線で囲むという大規模なものであり、鬼ノ城の場合は全長2.8kmに及んでいる。城門が4ヵ所設けられ、城内には水汲み場、土取り場、鍛冶工房、水門、礎石建物などの跡がみられる。

 ところで、城の建設に携わった人々やそこに駐屯した兵士たちのことが気になるのは私だけではないと思う。築城に際しては帰化した百済人の築城経験者またはその薫陶を受けた技術者が指揮したであろうことは推察できる。動員された人夫は地域の壮丁が国司・郡司の命令で集められたものと思われる。そして防人と呼ばれて駐屯する兵士たちは基本三年任期で東国から集められたものであろう。と想像するほかはないのかもしれない。


▲復元された西門の威容。古代山城最大の規模を誇る。

▲屏風折れの石垣。急崖上に舌状に突き出るようにして築かれた高石垣。鬼ノ城の見どころのひとつである。

▲鬼城山ビジターセンター前の駐車場。

▲鬼城山(きのじょうざん)ビジターセンター。

▲ビジターセンターから歩き始めるとすぐに道が二つに分かれる。右は車いすで西門までの登城が可能となっている。中央に見える箱にはパンフレットが入っている。

▲鬼城山の山頂部を鉢巻状に城壁が巡らされており、その跡を周ることができる。

▲城域に入る手前に設けられた学習広場。ここから鬼ノ城西門付近の様子が展望できる。

▲学習広場から見た鬼ノ城西門と土塁(復元)。

▲ビジターセンターから10分ほどで西門へ。

▲古代工法で復元された版築土塁。

▲復元された西門。

▲西門内側。

▲西門の規模は間口3間、通路1間とされ、古代山城中最大規模のものとされている。

▲西門から東へ続く城壁。

▲部分的に高石垣が築かれている。

▲第1水門。防御と排水処理を兼ねた場所。

▲第2水門。

▲南門跡。西門から約600m、15分。西門と同規模とされる。

▲南門からさらに東へ進むと巨岩列石が目立つ。

▲平安期には山上仏教の聖地になっていたようで、巨岩に彫られた千手観音像はその名残であろうか。

▲第4水門。

▲東門跡。西門から約30分、1.1km。西門と南門の間口が3間であるがこの門は1間と小型の城門となっている。

▲鍛冶工房跡。現在は埋め戻されているようだが、9基の鍛冶炉が発見されたといわれる。築城に際して使われた鉄製道具の制作補修を担った場所と思われる。

▲南門からさらに進むと巨岩を配した石垣が目につく。

▲その石垣の上部が通路となり、最東端の屏風折の石垣へと続く。

▲屏風折の石垣付近の広場。説明板や石碑が建っている。

▲鬼ノ城説明板。朝鮮から渡来した温羅(うら)一族が居住したと書かれている。

▲鬼之城保勝会が昭和12年(1937)4月に建立した石碑。

▲周辺の山肌には多くの巨岩が見られ、石材が豊富であったようだ。
----備考----
訪問年月日 2018年5月2日
主要参考資料 現地パンフ・他

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