白鳥城
(しらとりじょう)

            富山県富山市吉作    


▲白鳥城は神保氏の富山進出時に構えられたと思われるが、本格的に
構築されたのは羽柴秀吉の佐々成政討伐以後の前田氏時代のこと
である。縄張的にも織豊期の特徴を色濃く残しているとされている。
(写真・本丸外郭。)

呉東を見下ろす織豊系山城

 富山平野の中央を南北に走る断層帯によって隆起した呉羽丘陵は北陸古道を押さえる要地にあり、古くから軍事的な要害として利用されてきたことが「源平盛衰記」や「太平記」に伝えられている。
 平安末期の寿永二年(1183)に源義仲の腹心今井兼平(巴御前の兄)が「御服山」に陣したという。「御服」も「呉羽」も語源は同意とされる。また、白鳥の名も東麓に白鳥神社のあることから呼ばれるようになったらしい。
 南北朝期の康安二年(1362)には足利直冬党の桃井直常討伐の加賀・越中の幕府方の軍勢が「御服峯」に拠ったという。
 白鳥城が城砦化されたのはやはり戦国期にはいってからであろう。
 天文十二年(1543)に越中守護代としての復活を目指す神保長職(ながもと)は呉羽丘陵以東への勢力拡大に乗り出した。長職は神通川を越えて富山城を築き、新川郡守護代の椎名氏を相手に激しい抗争を起こした。
 永禄三年(1560)、神保長職の圧迫に耐えかねた椎名氏が隣国越後の長尾景虎(上杉謙信)に援軍を要請した。越後勢の越中進攻によって長職は富山城を追われ、さらに本拠の増山城(砺波市)までも追われてしまった。景虎の撤収後、長職は再び勢力を回復したが、富山城には復帰できなかったようである。
 永禄五年(1562)七月、長職は再び上杉輝虎(謙信)の再攻を受けて敗北するが、上杉勢の撤収直後に再起して椎名氏を追い詰めた。十月、輝虎はまたも越中へ軍を進めて長職を攻めた。この時に長職は「呉福山」に拠ったとされ、輝虎は近辺悉く焼き払ったことが伝えられている。長職は増山城に籠城したがついに輝虎に降伏恭順することになった。
 白鳥城(呉福山)が山砦として構築されたのはこの時のことであったかも知れない。一般的に白鳥城は富山城の支城・詰城と見られているが、長職にとっては増山城の出城として構えたものであったに違いない。
 天正元年(1573)六月、加賀の一向一揆勢が越中へ進攻した際には上杉勢が「五福山」に陣していたが敗走している。これは丘陵の東側が断層のために断崖を成しているが西側は緩やかな斜面となっていて西からの攻めに弱いことを示している。

 時は移り、長職、謙信亡き後、越中は織田信長の勢力下におかれ、天正九年(1581)には織田家臣の佐々成政が越中に封ぜられた。
 信長死後の情勢変化のなかで佐々成政は天正十三年(1585)に羽柴秀吉の討伐を受ける身となってしまう。
 討伐軍の先陣前田利家の家臣岡嶋一吉、片山延高が白鳥城を占拠して布陣した。後日、利家に案内されて白鳥城に到着した秀吉はここを成政の籠る富山城攻めの本営としたとされている。孤立した成政は剃髪して秀吉に降伏した。
 慶長二年(1597)、前田利長が富山城を居城とする。白鳥城には岡嶋、片山らが入ったが、山高く風が激しいことを理由に南麓の安田城に移ってしまった。その後、白鳥城は詰城として維持されたらしいが慶長四年(1599)以降には廃されたものと思われる。


▲本丸。天守台と呼ばれる土壇の北・西・南の三方を取り巻いている。

 ▲城址東側登山口の駐車場。

▲駐車場の南端に城址碑が建っている。

▲城址碑の右側に遊歩道が整備されており、本丸まで続いている。

▲最初に登りきった削平地が東出丸跡。

▲空堀跡と曲輪跡のアップダウンを繰り返しながら進む。

▲本丸手前の二の丸跡。

▲二の丸の隅に井戸跡があるが、草に覆われていた。

▲本丸。駐車場からここまで約6分。

▲本丸に立つ説明板。

▲本丸の天守台と呼ばれる部分。

▲白鳥城平面図。

▲本丸西側。

▲西一の丸。本丸の西側に構えられた曲輪である。さらに西側一段下がって西二の丸がある。

▲本丸から見た富山市街。

▲駐車場展望台から見た富山市街。遠くの山並みは立山連峰である。
----備考----
訪問年月日 2016年4月30日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ