安田城
(やすだじょう)

国指定史跡

            富山県富山市婦中町安田    


▲安田城は羽柴秀吉の富山攻めに際して先陣前田利家の家臣
岡嶋一吉らが前進拠点として陣取ったのが初見とされている。
現在は堀、土塁が復元され、国史跡として保存されている。
(写真・二の丸から本丸に続く土橋と本丸虎口。)

富山攻めの最前線は平城だった

 天正十三年(1585)、羽柴秀吉は七万の軍勢を催して越中の佐々成政攻めに乗り出した。先陣は前田利家の軍勢である。前田勢はいち早く進撃して佐々成政の富山城を見下ろす呉羽丘陵に達し、家臣岡嶋一吉、片山延高らは丘陵の高所にある白鳥城を奪取して陣所とした。

 ところが、後から秀吉が白鳥城を訪れた際に富山城攻めの本営にしたと言われ、岡嶋らは丘陵からさらに前進して平地の安田城に陣を構えた。これが安田城の史料上の初見とされている。この時に岡嶋らが城を新築したのか、以前からこの地に古砦が存在していたのかは不明である。

 その後、岡嶋一吉がいつまで安田城に居たのかは分からないが、天正十八年(1590)に当所の寺院に田畠を寄進していることから、富山攻め後の数年間は在城していたものと見られている。

 慶長二年(1597)、前田利長が富山城を居城とする。この時に家臣岡嶋一吉、片山延高は再び白鳥城に置かれた。

 しかし、白鳥城は生活には不便であったのであろう、「山高く風烈しきを以て」と利長に請うて安田城を居城としたと言われている。ただし、「呉服山(白鳥城)を詰城にかたどり」としており、有事に際してはあくまで白鳥城を活用するつもりであったようである。

 慶長四年(1599)、利家が亡くなったため嫡男利長は金沢城に入った。家臣として岡嶋一吉も金沢に移り、安田城には代官として平野三郎左衛門が入ったが慶長年間(〜1615)には廃城となったとされている。

 平成二年(1990)から四年にかけての整備事業によって堀、土塁、曲輪が復元され、保存がはかられている。


▲本丸を囲む土塁。背後の山並みは白鳥城のある呉羽丘陵である。

 ▲城址入口に建つ城址碑。

▲城址前の安田城跡資料館。

▲史料館の展望台から見た城跡。全体を俯瞰できるほどの高さがないのが残念。

▲展望台にあった城址鳥瞰図。

▲城跡への入口。

▲入口に立つ説明板。

▲入口からまずは右郭と呼ばれる曲輪へ土橋を渡る。水堀は復元されたもの。

▲右郭には城址の野外模型が展示されている。

▲右郭から土橋を経て二の丸へ。

▲二の丸から本丸方向を見る。

▲二の丸は本丸方向以外の三方は土塁が巡っている。

▲土橋を経て本丸へ。本丸は四囲を厚い土塁で囲んでいる。

▲本丸土塁の一部が土塁展示館となっている。

▲土塁展示館では土塁断面の様子が観察できる。

▲本丸から見た二の丸。
----備考----
訪問年月日 2016年4月30日
主要参考資料 日本城郭大系」他

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