金沢城
(かなざわじょう)

国指定史跡

            石川県金沢市丸の内    


▲金沢城は当初、加賀一向一揆の拠点が置かれた所である。織田家臣
佐久間盛政によって攻略された後はその居城として改築された。賤ヶ岳
合戦後には前田利家の居城となり、近世城郭の体裁を整えるに至った。
(写真・二の丸に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。)

一向一揆の御堂から加賀百万石の城へ

 金沢城が加賀前田家百万石の居城であったことは有名であるが、実は藩祖前田利家が新築した城ではないのである。確かに近世城郭としての金沢城を築き上げたのは前田氏であったが、当地にはじめて拠点を築いたのは一向一揆の石山本願寺(大坂城)であったのだ。
 加賀一向一揆は長享二年(1488)に守護富樫氏を滅ぼしたことに始まり、以後約百年の間「百姓の持ちたる国」として続くのであるが、当初は周辺諸大名との争いや内紛によって必ずしも統制のとれたものではなかったのである。そこで石山本願寺が加賀一向一揆を直接支配しようと天文十五年(1546)、当地に拠点を築いたのである。金沢御堂と呼ばれるのがそれである。別称としては金沢御坊や単に御山とも呼ばれていたらしい。場所は後の金沢城本丸跡と見られているが、金沢城築城に際して徹底的に破壊されたようで、明確な証拠が得られていないのが現状と言われている。
 さて、金沢城の前身である金沢御堂である。寺院とはいえ、石山本願寺と同様、建立当初から合戦に備え、堀や土塁を設けて城郭化されていたことは言うまでもないだろう。
 元亀元年(1570)になると石山本願寺と織田信長との抗争がはじまり、信長対一向一揆の容赦のない戦いが長年に渡り続くことになる。
 天正元年(1573)、石山本願寺の顕如は七里頼周を加賀の一向一揆勢の指揮官として派遣した。
 天正三年(1575)、前年に長島一向一揆(長島城)を殲滅した信長は矛先を越前の一向一揆に向けてこれを制圧、さらに加賀南部に軍を進めて大聖寺城や日谷城を修築して兵を置いた。いよいよ加賀一向一揆は織田勢との戦いに突入した。
 天正四年(1576)、独善的で粗暴な七里頼周は門徒との衝突も多かったことから顕如の指示で下間頼純が金沢御堂に派遣されてきた。この頃、信長は柴田勝家に加賀平定を命じている。
 天正五年(1577)、柴田勝家は上杉謙信に攻囲されている七尾城救援のために四万の大軍を率いて加賀へ進攻した。加賀の一向一揆は七尾城を落とした謙信の進軍に協力したため、手取川を越えたばかりの柴田勝家の軍勢は謙信勢の急襲を受けて大敗してしまう。退却する勝家は御幸塚城(小松市)に佐久間盛政を留めて加賀南部維持の拠点とした。佐久間盛政は勝家の甥にあたり、また鬼玄蕃とあだ名された猛将として知られている。
 天正八年(1580)、信長と石山本願寺が講和となり石山合戦が終結した。しかし、柴田勝家は講和直後に加賀へ乱入、金沢御堂は先鋒佐久間盛政の攻撃を受けて陥落してしまった。信長は盛政に石川・河北二郡十三万石を与えて戦功とした。
 佐久間盛政は金沢御堂を徹底的に破却した跡に築城を行い、居城とした。御堂は別に御山と呼ばれていたことから盛政は「尾山城」と称したらしい。盛政の築城が後の金沢城に繋がって行くのである。蓮池堀(百間堀)の開削は盛政によってなされている。
 一方、加賀一向一揆残党との戦いは御堂陥落後も続き、最後まで抵抗を続けていた山内衆(鳥越城)との戦いは天正十年(1582)に盛政の手によって殲滅されて終わった。

 天正十一年(1583)、加賀平定に功を成した盛政であったが、賤ヶ岳合戦で敗走中に捕らえられ、京に於いて斬首されてしまう。
 金沢城(尾山城)は秀吉に接収され、前田利家に与えられた。利家は能登二十三万石の領主であったが、この機に金沢城へ本拠地を移し、城の修改築をはじめた。
 天正十四年(1586)頃には天守(慶長七年/1602焼失)が完成したと言われる。天正十五年(1587)にはバテレン追放令によって浪人となった高山右近(高槻城)が利家に招かれ、城の改築に貢献したと伝えられている。慶長四年(1599)、利家没して利長が継いだ。
 慶長五年(1600)、関ケ原合戦後、利長は加賀・能登・越中三ヵ国百二十万石に所領が増えた。
 寛永十六年(1639)に三代利常は隠居に際して富山藩十万石(富山城)と大聖寺藩七万石を支藩として立藩させ、百二万五千石となる。
 以後、利家を初代とし、十四代続いて明治に至った。


▲東の丸丑寅櫓の高石垣。

 ▲県道10号(お堀通り)沿いの白鳥路入口に建つ前田利家公の像。

▲大手門口(尾坂門)。

▲大手堀。

▲大手門跡石垣。

▲巨大な割石(鏡石)を組み込んだ大手門石垣。

▲大手門口を入ると新丸広場である。

▲新丸を抜けて河北門へ向かう。

▲河北門枡形に見られる隠し石垣。白壁が石垣を覆って塗られている。

▲金沢城の表門である河北門(復元)。

▲三の丸広場。正面に現在の金沢城を象徴する菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓(平成13年/2001復元)が白く輝いて見える。

▲三層の菱櫓。

▲菱櫓と橋爪門続櫓を繋ぐ二層の多門櫓。

▲橋爪門一の門と三層の続櫓。

▲橋爪門二の門。

▲二の丸広場から見た五十間長屋と菱櫓。二の丸には藩主の居所と政務の場である御殿があった。

▲五十間長屋から見下ろした内堀と橋爪橋。

▲二の丸と本丸付段の間に架かる「極楽橋」。金沢御堂時代の名残りを思わせる名である。

▲極楽橋の架かる空堀。

▲本丸付段の二層多門櫓である三十間長屋。安政5年(1853)築の国重要文化財である。

▲本丸の石垣。現在の本丸は多種多様な植物の森となっている。

▲石川門二の門。

▲石川門一の門。

▲石川門橋から見た県道10号。かつての百間堀である。右が金沢城、左が兼六園である。

▲百間堀園地から見た石川門と櫓。
----備考----
訪問年月日 2016年4月30日
主要参考資料 日本城郭大系」
「平成金沢城まるごとガイド」他

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