二条城
(にじょうじょう)

国指定史跡・国宝・世界遺産・百名城

            京都府京都市中京区二条城町    


▲二条城は徳川家康が上洛時の宿所として慶長八年(1603)に完成
させた城である。その後、三代将軍家光によって拡張され、現在の規
模になった。幕末、大政奉還がこの城で表明されたことは有名である。
(写真・外堀と正門とされる東大手門。)

徳川時代の幕開けと幕引きの舞台

 二条の呼び名を冠した城館には幾つかあるが、その代表的なものには永禄十二年(1569)四月に織田信長が将軍足利義昭のために築いた城郭造りの新邸があり、また慶長六年(1501)に徳川家康が上洛時の宿所として築いた城郭がある。現在、前者を二条古城又は旧二条城(上京区五町目町)と呼び、後者を二条城と呼んで区別している。ここでは家康の築いた二条城について簡単に紹介したいと思う。

 関ケ原合戦の翌年、慶長六年(1601)十二月に徳川家康は上洛時の宿所としての築城を決定して諸大名に普請を命じた。いわゆる天下普請である。

 慶長八年(1603)三月には完成し、征夷大将軍となった家康が入城した。当時は現在の二の丸部分の規模であった。家康はここで将軍就任の祝宴を開いた。徳川時代の幕開けである。普請にあたった池田輝政や加藤嘉明らは「堀をさらに二間広げては」と進言したが家康は「狭い方が槍を振り回せないし、船の自由も効かないであろう。しかも寄せ手に対する鉄砲も当てやすい」と言ったという。

 慶長十六年(1611)、家康は二条城にて豊臣秀頼(大坂城)と会見する。家康七十歳に対して秀頼は十九歳、その若武者ぶりに恐れをなした家康は豊臣家討伐の意志を固めたとも言われるが、実際には家康の命に服して秀頼が上洛したということで主従関係が逆転したことを天下に知らしめた会見であったとされる。

 慶長十九年(1614)夏、方広寺鐘銘事件を口実に家康が動いた。足腰の達者なうちに豊臣家を滅ぼし、徳川支配の体制を固めておかなければならない。家康は戦争準備を進めると同時に大坂方を追い詰め、十月十一日には駿府城を出陣して二十三日には二条城に入った。十一月十五日、家康は二条城を出陣して大坂へ向かった。大坂冬の陣である。

 冬の陣は一旦講和となったが翌慶長二十年(1615)四月、家康は再び大坂攻めのために二条城に入った。五月五日、家康は二条城を出陣して大坂へ向かった。大坂夏の陣である。冬の陣の講和で裸城となった大坂城は真田信繁や後藤又兵衛らの奮戦も空しく徳川勢によって制圧され、秀頼と淀殿も自害して豊臣家は滅びた。

 夏の陣後(七月)に改元されて元和となった。二代将軍秀忠は二条城において禁中並公家諸法度を発布して朝廷と公家の統制を規定して新時代の幕開けを示した。

 翌元和二年(1616)四月、家康は重き荷物を背負い続けた長い人生に終止符を打つようにして没した。家康にとっての二条城は豊臣氏排除の本陣であったといえようか。

 元和六年(1620)、秀忠の娘の和子(東福門院)が後水尾天皇の女御として二条城より入内する。

 寛永元年(1624)、三代将軍家光、本丸、二の丸、天守を造営し、同三年(1626)に後水尾天皇の行幸を受ける。

 寛永十一年(1634)、家光、三十万七千の大軍を率いて二条城に入城。その後、将軍の二条城入城は途絶え、城代と在番衆五十人が置かれた。元禄十二年(1699)には城代も廃止され、少数の定番、与力、同心らによって幕末まで管理された。その間に地震、落雷(天守焼失)、大火(本丸御殿、櫓焼失)によって荒廃した。

 文久二年(1862)、十四代将軍家茂の上洛のために二の丸御殿の修復及び本丸に仮御殿が建てられる。翌年、家光以来二百三十年ぶりに将軍家茂が二条城に入城する。この将軍上洛に際してその警護を名目として清河八郎らの浪士組が江戸から入京している。この中に近藤勇や土方歳三らがおり、後に新選組を結成するに至る。

 慶応元年(1865)、家茂、再上洛して二条城に入城。第二次長州征伐を指揮するも大坂城にて病没した。

 慶応二年(1866)十二月、一橋慶喜が二条城にて十五代将軍の宣下を受ける。

 慶応三年(1867)十月、将軍慶喜、二条城二の丸御殿大広間にて大政奉還を上表。慶喜、混乱を避けるために幕府軍約一万を率いて大坂城に移る。年が明けて鳥羽伏見の戦いによって幕府軍敗退、二条城には新政府の太政官代が置かれ、徳川家の城としての歴史に幕を下ろした。


▲二の丸御殿の車寄。

▲東南隅櫓。天明8年(1788)の大火で焼失を免れ、重要文化財となっている。

▲東大手門と史跡碑。

▲東大手門は二条城観光の入口でもある。

▲東大手門前の外堀。

▲東大手門を入るとまず番所。

▲二の丸御殿の塀に掲げられた案内図。

▲二の丸御殿への入口である唐門。

▲二の丸御殿。

▲二の丸庭園への入口。

▲二の丸庭園。寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸に際して小堀遠州によって改修された。

▲二の丸御殿大広間の外観。

▲二の丸から内堀を渡ると本丸である。東橋と本丸櫓門。

▲東橋から見た内堀と本丸石垣。

▲本丸櫓門を入ると枡形の石垣。二条城が城郭であることを感じさせる場所である。

▲本丸御殿。

▲本丸天守台の石垣。

▲天守台から見た本丸。

▲天守台から見た内堀と西橋。

▲本丸御殿の車寄。

▲本丸から西橋へ至る虎口。

▲西橋から見た天守台。

▲本丸北側から見た内堀と西橋。

▲内堀北側の見事な本丸石垣。

▲北中仕切門。

▲内堀北側から見た鳴子門。

▲北大手門。

▲築城400年記念で建てられた展示・収蔵館。

▲東南隅櫓と外堀。
----備考----
訪問年月日 2017年4月29日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「元離宮二条城」他

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