丹後守護一色氏最後の城として有名な弓木城であるが本来の城主は稲富(いなどめ)氏である。
稲富氏の由来の詳細は不明であるが山田氏を名乗る武士が稲富の地を名字として弓木(忌木)城主となったという。二代直時(祐秀とも)の時代に丹後守護一色氏の被官となったというから築城されたのは室町期のことであろう。直時は天文二十三年(1554)に鉄砲名人佐々木義国(詳細不明、ルソンに渡り砲術と火薬の製法を得たと言われる)から鉄砲術の印可を受けたとされるから戦国期を生きた人物である。直時はさらに腕を磨き、その技術を孫の祐直に伝えた。
天正七年(1579)、祐直二十七歳のとき、丹後国は織田信長麾下の細川藤孝、明智光秀の軍勢による攻撃にさらされた。守護一色義道は居城建部山城を落とされ、自害に追い込まれた。義道の家督を継いでなおも抵抗を続けた一色義定は残党を率いてここ四囲峻嶮な弓木城にやって来たのである。
現在では本城部分のみが残るばかりで、とても大軍の攻撃に耐えられるものとは思えないが、当時の城域はかなり大規模なものであったようだ。一色氏最後の拠点と義定が見立てたのも間違いではなかった。
城主の稲富伊賀守祐直は国主一色義定の来城に面食らったであろうが、磨きをかけた父祖伝来の砲術の威力を実戦で証明してやろうと気負い立ったに違いない。実際、城に籠った一色勢は度重なる細川勢の攻撃のことごとくを撃退している。その中に銃撃戦に備えたものか、具足を二枚重ねで着込み、敵将を過たず撃ち倒す祐直の姿があったことは想像に難くない。「二領具足」の異名が瞬く間に両軍に広まった。
籠城戦二十日を過ぎる頃、細川方から和議の提案があった。細川藤孝の娘を義定の正室に差し出すことで丹後を二分しようというものであった。細川勢の丹後侵略を頓挫させたのであるから籠城側の勝利である。
天正八年(1580)、信長は丹後を二分して義定を北丹後(奥郡)二万石の領主として認めた。
天正十年(1582)、本能寺の変に乗じて弓木城の義定が動いたようだ。兵船をもって宮津湾犬堂(西宮津公園付近)沖に押し出したが、しかし明智光秀の敗死を知ったものか直ちに引き返したらしい。後日、宮津城の細川忠興は義定を城内に誘い出し、謀殺してしまった。
忠興はこれを機に一色残党の討伐に乗り出した。弓木城では義定の叔父義清が一色氏の家督を継いで挙兵した。弓木城に迫る細川勢に対して義清は城を打って出、積極果敢に応戦したようだ。しかし、このことがかえって腹背に敵の攻撃を受けることになってしまった。「もはや、これまでか」と義清は細川本陣めがけて突入、壮絶な最期を遂げたという。
弓木城も一色氏の滅亡と共に落城した。ところが、元城主の稲富祐直は鉄砲の腕を買われたのか細川忠興に召し抱えられ、弓木城主として返り咲いたらしい。
砲術家としての祐直の名は天下に広まり、諸大名から教えを請われるほどになった。慶長五年(1600)の関ケ原前夜、祐直は忠興の命により、大坂の細川屋敷の警護に当たっていた。石田三成勢の来襲により忠興の妻ガラシャは自決して屋敷は炎上してしまう。この混乱のなか、祐直は逃走してしまったのである。弟子たちが祐直の死を惜しんだためとも言われている。関ケ原後、このことを知った忠興は激怒して追手を差し向け、さらに他家に仕官出来ぬように奉公構えの処置をとった。慶長十三年(1608)頃、徳川家康が祐直の砲術が途絶えるのを惜しみ、忠興に掛け合って祐直を駿府に召し出した。その後、祐直は二代将軍秀忠や尾張徳川義直にも呼ばれて砲術を伝授、慶長十六年(1611)、駿府にて没した。
関ケ原後、丹後国には京極氏が入部した。戦国丹後の戦いの舞台となった弓木城も泰平の世には無用のものとなり、放置された。
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