大溝城
(おおみぞじょう)

市指定史跡

            滋賀県高島市勝野    


▲大溝城は織田信長の甥・信澄の居城として築城された琵琶湖岸
の水城である。信澄の後は城主が頻繁に変わり、京極高次が最後
の城主として妻お初と共に過ごしたことなどが知られている。
(写真・本丸天守台南面の石垣と城址碑・説明板。)

湖上連絡網の完成

 大溝城の築城は天正六年(1578)頃に高島郡を所領とした津田(織田)信澄による。
 津田信澄は織田信長の弟勘十郎信行(信勝)の子で、信長とは伯父と甥ということになる。父信行は弘治三年(1557)に信長によって殺されたが、子の信澄らは織田一族として育てられ、信長の連枝衆の一人として重用された。元亀二年(1571)には織田方に降って近江高島郡を与えられた浅井家臣の磯野員昌の養嗣子となった。信澄の高島郡入部の時期は明確ではないが、天正四年(1576)一月には高島郡から上洛したことが確認されているので、この頃のことと思われる。
 大溝城築城の契機となったのは、天正六年(1578)二月に磯野員昌が突然高野山へ出奔したためである。理由はよく分からないが、信長の叱責を受け、その処分を恐れたためとされている。信澄への家督譲渡に不満でもあったのであろうか。
 ともかく高島郡は信澄の所領となり、明智光秀(坂本城主)の娘を娶っていた縁からか、大溝城築城の縄張は光秀の手によって成されたと言われ、坂本城同様の水城が完成した。これで安土城を基点とした長浜城、坂本城そして大溝城を結ぶ湖上連絡網が完成すると同時に各方面への陸上交通路を固める体制が整ったことになる。
 天正十年(1582)六月、本能寺の変が起きた時、信澄は四国遠征軍の副将として大坂城にいた。ところが、遠征軍の総大将神戸(織田)信孝と副将格の丹羽長秀は光秀の娘婿であった信澄を大坂城千貫櫓に襲い、討ち取ってしまったのである。
 清州会議の後、若狭国、近江国志賀郡と高島郡は丹羽長秀の所領となった。長秀は坂本城に入り、大溝城には信澄の首級を挙げた丹羽家臣植田重安が入った。
 天正十一年(1583)、丹羽長秀が賤ヶ岳合戦後に越前府中城に移ると羽柴秀吉の家臣加藤光泰が高島郡の一部二万石を拝領して大溝城主となった。
 天正十三年(1585)、加藤光泰が小牧長久手合戦後に大垣城主四万石に転出し、生駒親正が二万三千五百石で城主となった。
 天正十四年(1586)、生駒親正は伊勢国神戸城四万千石に転じ、翌年に京極高次が高島郡一万石の領主として大溝城に入った。

 大溝城主として名門京極氏を大名の地位に復活させた高次は豊臣秀吉の計らいで浅井三姉妹の次女お初(常高院)を娶っている。
 天正十八年(1590)、高次は二万八千石に加増されて近江八幡山城へ移り、後に大津城六万石を与えられて関ケ原合戦の時の籠城戦を迎えることになる。
 高次転出の後は秀吉の直轄領として代官が派遣されて領域支配を行った。関ケ原後の慶長八年(1603)に城郭が取り壊されたことが伝えられている。
 元和五年(1619)、伊勢国上野城主(上野藩二万石)分部光信が入部して大溝藩二万石を立藩した。光信は一国一城令のこともあって城を再建することなく、三の丸跡に陣屋を構えて藩庁とした。以後、十一代続いて明治に至る。


▲本丸天守台北面の石垣。

▲本丸天守台北西側の石垣。

▲高島市民病院側から城跡に向かう。

▲本丸天守台石垣の南面に建つ城址碑。

▲城址碑と共に立つ説明板の縄張図。

▲大溝城は京極高次と妻お初が新婚生活を過ごした城でもある。

▲説明板にあったお初(常高院)。

▲天守台上部への石段。

▲天守台南面の石垣。

▲天守台東面の石垣。

▲天守台石垣の上部。

▲天守台跡。

▲天守台上部の平坦部。

▲天守台南面の石垣。
----備考----
訪問年月日 2017年1月4日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「日本城郭総覧」他

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