園部城
(そのべじょう)

            京都府南丹市園部町小桜町    


▲園部城は江戸初期に小出氏の入部によって築かれたもので
あったが、江戸期を通じて陣屋扱いであった。明治維新の争乱に
備えて新政府より改築を許可され、晴れて城となったという経緯をもつ。
(写真・本丸の櫓門と巽櫓。)

明治に城となる

 戦国期に八上城主波多野氏の七頭家の一人である荒木氏綱が当地に拠り、織田勢と戦ったとも言われているが真偽のほどは定かではない。

 元和五年(1619)にこの地を封地として二万九千八百石で入部した小出伊勢守吉親によって城が構築された。これが園部藩と園部城の創始となる。

 吉親の父吉政は豊臣秀吉の従兄弟にあたり、秀吉の馬廻として活躍し、但馬国有子山城(兵庫県豊岡市出石)六万石を拝領していた。関ケ原では西軍に付いたが弟秀家が東軍に付いて活躍したため、所領は安堵された。その後、嫡男吉英が出石の所領を継承したが、吉政の遺領岸和田三万石に移ったために次男の吉親が出石約三万石を領することになった。しかし、再び吉英が出石に戻ることになったため、吉親は新たに園部へ封ぜられることになったのである。

 入部当初、吉親は宍人城(園部町宍人)を拠点としたようだが、交通・水運の利便を考慮して園部川に沿った現在地に築城を決めたとされる。工事は小向山(小麦山)山麓に堀を巡らして居館を普請、さらに武家屋敷や城下町を整備した。城の完成は元和七年(1621)である。しかしながら城と呼称されることは許されず、陣屋であった。

 吉親を初代藩主として幕末に至るまで国替えはなく、十代続いた。

 最後の藩主英尚(ふさなお)は早くから勤皇、新政府支持の姿勢を示しており、慶応四年(1868)一月には園部城の改築許可が新政府から降りている。京都が戦場となった場合に天皇の避難先にするためであったとされている。

 藩では直ちに改築工事に取り掛かり、翌明治二年(1869)八月には櫓門三ヵ所、櫓五ヵ所が築かれて城郭としての体裁を整えた。小向山山頂に建てられた三層の櫓は城としての威容を強調するものであったろう。

 しかし、明治四年(1871)には廃藩置県となり、明治五年(1872)には取り壊し、払い下げとなってしまう。僅か三年足らずで廃城となったことになる。ただ、国内最後に建造された城としてその名を歴史に留めることになった。


▲本丸の櫓門。現在は園部高校の校門となっている。

▲櫓門に続く巽櫓。両方ともに現存遺構として貴重である。

▲櫓門前に建つ城址碑。

▲城址碑と共に立つ説明板。

▲櫓門の左手に見える巽櫓。

▲櫓門。二階部分の高さが低く、実戦向きではなさそうである。

▲格子の入った窓や張り出しの少ない石落しなど違和感があるが、天下泰平による築城技術の衰退によるものかもしれない。

▲かつての本丸部分には高校の他に天守を模した国際交流会館などが建っている。訪城の際にはこの駐車場を利用するとよいだろう。
----備考----
訪問年月日 2017年4月29日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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