久留米城
(くるめじょう)

         福岡県久留米市篠山町       


▲ 久留米城は当初は砦程度の小城であったが、毛利秀包の入城によって近世
城郭に整備され、有馬氏によって完成された城である。天守は建てられなかったが
本丸を廻る多聞は二重で建造され、なかなか立派なものであったと言われている。
(写真・本丸南面の石垣と堀。)

有馬氏二百五十年の府城

 永正年間(1504-21)、当地の土豪が笹の生い茂る丘を拓いて城を築いたのが久留米城の始まりで、笹山城と呼ばれていたという。その後荒廃して田圃となっていたものを天文年間(1532-55)に御井郡司某が再拠したとされる。天正初期(1573頃)、高良山座主良寛(りょうかん)の弟麟圭(りんけい)が城主となっていた。
 この頃の当地は豊後大友宗麟と肥前竜造寺隆信の争う地となっており、座主良寛は大友方に協力していた。天正六年(1578)、大友氏の日向出陣の際に良寛も一軍を率いて参陣した。この留守中に麟圭は座主職を押領して竜造寺方に付いたのである。その後、天正十四年(1586)の島津氏の北進によって高良山が焼き討ちされ、筑後がその版図に入るまでは大友、竜造寺両氏によって笹山城(久留米城)は取ったり取られたりの状態が続いた。
 天正十五年(1587)、九州を席巻した島津氏を降して九州を平定した豊臣秀吉は毛利秀包(元就の九男)に筑後三郡七万五千石を与えた。秀包は砦程度の小規模な笹山城を再構築して近世城郭としての久留米城を築き上げて居城とした。
 ところで麟圭である。秀吉は麟圭の野心を見抜いて領地を没収し、秀包に与えたと言われている。その後も麟圭は高良山に拠って秀包に従わず、両者は度々合戦に及んだが決着が付かずにいた。天正十五年(1587)、戦して犠牲を払うほどの価値もないとみたのであろうか、秀包は講和を装い、麟圭を城に招いて饗応、その帰路を襲って謀殺してしまった。
 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、豊前中津城の黒田如水が久留米城を攻撃してきた。秀包は上方に出陣しており、家臣の桂広繁が城代となっていた。秀包は桂広繁に「東軍が攻めてきたならば城を枕に討死せよ、もし黒田官兵衛(如水)であったなら降伏せよ。官兵衛ならば城兵の命を助けてくれるであろう」と言い含めたと伝えられている。桂広繁は言葉通りに城を官兵衛に明け渡した。

 関ヶ原合戦後、秀包は西軍に属したために改易となり、田中吉政(三河岡崎城十万石)が筑後三十二万五千石を拝領して入部した。吉政は柳河城を居城としたため、久留米城はその支城となって吉政五男吉信が城主となった。慶長十九年(1614)吉信、没。家臣坂本和泉が城代となるも元和元年(1615)の一国一城令によって久留米城は一旦廃城となる。
 元和六年(1620)田中氏が無嗣改易となると有馬豊氏が丹波福知山(福知山城)八万石から二十一万石で久留米に封ぜられた。この破格の加増転封は大坂の陣の戦功によると言われている。豊氏は廃城となっていた久留米城を修築し、城下町を整備した。城の構築整備は代々継続して続けられ、元禄四年(1691)に至って完成した。その後も有馬氏が藩主であり続け、十一代を経て明治に至った。
 幕末には尊攘派の志士として知られる真木和泉は久留米城下の出身である。
 明治四年(1871)、久留米藩内の反政府活動鎮圧のために熊本藩が出兵、久留米城が占拠される。その後廃城処分が進められ、城としての歴史に幕を降ろした。


▲本丸跡。かつて、藩主が政務を執った本丸御殿の跡である。現在は篠山神社(祭神は始祖有馬豊氏公他)が建っている。
 ▲城址南側の本丸への入り口。
▲本丸南面東側の石垣と堀。

▲ 本丸南面西側の石垣。

▲本丸への入り口、冠木御門跡。

▲「久留米城本丸址」の碑。

▲太鼓櫓跡から見た石垣と堀。

▲本丸北側の井戸。本丸にはかつて井戸が三つあったと言われ、現在は二つ残っている。固い岩盤をくり抜いて作られていると説明されている。

▲「津田一伝流遂退先生之碑」。津田一伝流は一伝流の奥義に達した津田正之に藩主が剣術の一派を開かせたもので久留米藩の「御流儀」となった。

▲月見櫓跡から駐車場となっている蜜柑丸を見る。

▲蜜柑丸とその北面、月見櫓の石垣(正面)。

▲月見櫓跡の石垣。

▲蜜柑丸南面の石垣。蜜柑丸は本丸東側にあり、現在は数台分の駐車場となっている。
----備考----
訪問年月日 2013年8月16日
主要参考資料 「日本城郭大系18」他

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