長野城
(ながのじょう)

            三重県津市美里町桂畑         


▲長野城は中伊勢に勢力を誇った長野氏の拠城である。長野氏は
南北朝時代以降、南伊勢の北畠氏と果てしのない抗争を続け、
最終的には織田氏によって北畠氏もろとも滅ぼされてしまった。
(写真・主曲輪東側の腰曲輪に建つ城址碑と説明板。)

中伊勢の雄長野氏を支えた孤高の山城

 長野氏は伊勢国中部に勢力を誇った国人である。鎌倉期の延応元年(1239)に工藤祐長が安濃、庵芸二郡の地頭に補せられたのを期に子の祐政が長野に土着して長野氏(初代)を称したのに始まる。長野城は二代祐藤が文永十一年(1274)に築いたと言われている。
 南北朝期に入ると北畠氏が伊勢国司として伊勢南部に進出して南朝勢力の拠点としたが、この後長野氏は北畠氏との果てしのない闘争を繰り返すこととなる。
 貞和二年(1346)、四代藤房は南朝勢力拡大を目論み霧山城を本拠とする北畠顕能の攻撃を受け、長野城は落城して自害に追い込まれてしまった。かろうじて子の豊藤は京に落ち延びて再挙の時を待つ。
 文和元年(1352)、長野豊藤は伊勢守護仁木義長とともに伊勢に入国して長野城を奪回して五代当主となり、一族を掌握した。長野氏の分家として雲林院(うじい)、草生(くさわ)、家所(いえどこ)、細野、分部(わけべ)、川北、中尾の各氏があり、兵五千を抱える中伊勢最大の勢力を誇っている。
 延文五年(1360)、仁木義長が細川清氏、土岐頼康、畠山国清らの排斥行動に敗れて長野城に逃れてきた。義長の傍若無人ぶりが招いた結果である。豊藤にとって義長は恩人であるから入城を拒めなかったのであろう。長野城には土岐頼康、六角氏頼らの軍勢七千余騎が押し寄せたが、義長は長野城に二年間の籠城を続けたと伝えられる。兵糧は乏しくなり、城兵は三百余騎に減り、挙句の果てには吉野に使者を走らせて南朝に付いてしまった。長野一族がどこまで義長に従ったのかはよく分らない。その後、義長は許されて幕府に帰参したが、かつてのような勢いはなかったという。
 その後、長野氏は一貫して幕府方にあって北畠氏との抗争を繰り返した。応仁の乱(1467)では守護一色義直に従って西軍山名方に属し、東軍の北畠氏と争った。戦国の様相は常態化し、長野氏は美濃の土岐成頼、斎藤利国らと結んで北伊勢にも進出して桑名にまで兵を進めている。
 天文十六年(1547)からは北畠晴具の積極的な攻勢を受けて一志郡内では激しい攻防が続いた。十五代藤定は北畠氏との二百年以上に渡る抗争に終止符を打つべく、嗣子に恵まれなかったこともあって北畠具教の次男具藤を養嗣子とすることにした。実質的には北畠氏に降ったかたちとなったのである。 永禄十一年(1568)になると尾張織田信長の伊勢進攻がはじまった。
 一族の安濃城主細野藤敦は徹底抗戦を主張して譲らなかったが、分部光嘉や川北勝元らは和睦すべしとして一族は和戦両派に分裂した。当主具藤は和睦派に乗ぜられて安濃城を攻めたが、逆に長野城を攻められて北畠氏の本拠多芸に逼塞した。

 永禄十二年(1569)、一族の和睦派は逃亡した具藤に替えて信長の弟三十郎信包を後嗣として迎え、織田麾下に入った。
 長野氏の当主となった信包は元亀元年(1570)に不便な長野城を廃して上野城を居城とした。ここに三百年近くにわたり長野氏とその一族を支えてきた長野城はその役目を終えたのである。
 その後の天正四年(1576)十一月、三瀬の変が起こり、織田信雄の指図で北畠具教が殺され、具藤も田丸城にて一族十三人と共に殺された。北畠氏そして長野氏の滅亡である。
 ちなみに織田との和睦派であった分部光嘉は信包に仕えて上野城代を務め、秀吉時代には一万石、関ヶ原では東軍に付いて二万石に加増され、子孫は近江大溝藩二万石として明治に至った。
 標高520mにある長野城址は近年まで草木に埋もれて道さえ明瞭でなく、登城者を拒み続けていたが、林道の整備によって今では城跡まで車で行けるようになった。とはいえ、城跡までの未舗装区間は四駆以外の普通の乗用車では無理である。


▲桂畑文化センター前から望む長野城址。中央の鉄塔の建つ山上が城址である。ここからは直線で約1.5kmであるが、林道は約5kmほどの道のりとなる。
▲「長野城2.4km」の分岐点からしばらくは狭い道幅ながらも舗装されている。
▲やがて未舗装となる。

▲ここから先は乗用車では無理であり、危険と判断して徒歩で城址を目指した。

▲徒歩開始10分ほどで城址に到着した。仮設トイレが設置されている。

▲登城は西側からとなる。主曲輪までに数段の削平地が設けられている。

▲主曲輪西側の一段下がった曲輪。この先が主曲輪である。

▲主曲輪。西側にはコの字形に土塁が巡っている。

▲主曲輪西側の土塁。

▲主曲輪北側の土塁。

▲主曲輪東側の腰曲輪。ここに城址碑と説明板が立っている。

▲城址碑付近からの眺め。遠く伊勢湾まで望むことができる。

▲「史跡長野氏城跡」の碑。国指定史跡になっている。

▲腰曲輪から見た主曲輪との段差。訪れる人も稀であろうと思われるが、荒れることなく手入れが行き届いている。

▲城址碑横の説明板。

▲説明板の縄張図。
----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「諸国廃城考」他

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