永禄十二年(1569)、伊勢国司八代北畠具教と九代具房は八千の兵をもって伊勢攻略の織田信長の大軍七万を相手に大河内城に籠って戦った。戦いは五十日に及び、北畠勢の健闘が続いたが、信長の申し出を受け入れて和睦開城した。信長の次男茶筅丸(信豊、後の信雄)を子の無かった具房の養嗣子としたのである。
戦後、具教は出家(不智斎)して三瀬谷に隠退し、ここに居館を築いた。これが三瀬館であり、三瀬御所とも呼ばれている。山の斜面を階段状に削平しただけの簡素なもので、戦いを意識したものではない。完成は元亀二年(1571)頃なのであろう。
三瀬館に隠退した具教であったが、信長に完全に服していた訳ではなかった。信長を取り巻く情勢を見れば北畠家復興を諦めるにはまだ早計であると思われたからである。具教は家臣鳥屋尾石見守を使者として武田信玄に密書を送り、また一門の坂内氏を甲府に置くなどして連携を図ろうとしている。
しかし、元亀四年(1573)に期待していた武田信玄が陣没し、翌天正二年(1574)には信長を苦しめていた長島一向一揆(長島城)が壊滅してしまった。さらに天正三年(1575)五月、三河長篠(設楽原古戦場)に於いて武田勝頼が大敗した。具教が意気消沈したことは想像に難くない。具教の沈んだ心に追い打ちをかけるように元服した信豊に北畠の家督が譲与され、信意と改名して十代当主となったのである。
天正四年(1576)、具教は伊賀国内に築城を始めた。丸山城である。再挙の拠点にするつもりであったのであろうか。しかし、具教の行為は三瀬隠退当初から信長に筒抜けであり、この築城に対しても信長が不快の念を露わにしたに違いない。この年の年頭祝儀使者として家臣鳥屋尾石見守、同右近将監が岐阜城に参向したが、信長は会おうともしなかったという。使者が憤然として帰りかけた時、呼び戻されたが、進物は庭に置かれて信長は長刀を振り回して無言で去ったというのだ。これ以上信長を刺激してはまずいと判断したのであろうか、具教は築城を諦めて三瀬に戻った。
十一月、信長と信意(信雄)は北畠氏討滅の計画を実行した。軍勢を催すのではなく刺客をもって謀殺してしまう計画である。刺客を命ぜられたのは旧北畠家臣の藤方朝成、長野左京亮、奥山知忠、滝川雄利らであった。奥山は仮病を使って不参加、藤方も家臣加留左京を送って自らは参加しなかった。
二十五日、刺客の三名は手勢を秘かに館周辺に配置して具教の御前に伺候した。具教は三歳の徳松丸と一歳の亀松丸を両膝に乗せて大きな炬燵に当たっていたが、近習佐々木四郎左衛門尉が三人の出仕を告げると二児をそれぞれの乳母に預けて引見した。すると長野が突如立ち上がって槍で具教を突いた。具教は槍を受けながらも応戦しようと太刀を取ろうとしたが、あろうことか近習佐々木によって遠ざけられていたのである。具教は塚原卜伝直伝の剣豪である。太刀を手にさせぬように刺客らは佐々木を取り込んでいたのであった。具教はあえなく討たれ、二児も殺された。同じ頃、田丸城にも北畠一族衆が集められて全滅させられていた。
三瀬の変事を知った具教家臣芝山出羽守秀定は急いで館に駆け付け、具教の首を奪い返すと馬で三瀬を脱した。野々口(飯南郡飯高町)で子の芝山小次郎と大宮多気丸に出会うと三瀬の変事を奈良興福寺別当東門院主である具教の弟に報せるために走らせ、秀定はここで首を埋め、追手と激しく斬り合って最期を遂げた。
変後、三瀬館は信意家臣森清十郎に与えられたとされる。
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