田丸城
(たまるじょう)

:県指定史跡、続百名城

            三重県度会郡玉城町田丸       


▲田丸城は南朝の重臣北畠親房が吉野・伊勢間の街道を確保
する為に築いたとされるが、詳しいことは分らない。室町時代
には北畠氏一族田丸氏の居城となり、玉丸御所と呼ばれた。
(写真・北の丸から見た本丸の石垣群。)

北畠氏一族・田丸氏の居城

 延元元年(建武三年/1336)は足利尊氏が室町幕府を開き、後醍醐天皇が吉野へ移ったという南北朝時代の始まった年である。

 この南都吉野と東国への門戸となる伊勢大湊を結ぶ東西の街道と参宮街道・熊野街道と呼ばれる南北の街道の交差する交通の要衝地に南朝の重臣北畠親房が築城したと言われ、当初は玉丸(たまる)城と呼ばれた。これが田丸城の創築と伝えられている。

 城将として南伊勢の豪族愛洲三郎左衛門宗実が入城して幕府方伊勢守護畠山高国の攻撃を撃退したとされ、興国三年(康永元年/1342)八月、幕軍高師秋によって落城したという。

 南北朝合一後は南伊勢多気(霧山城)に本拠を置く北畠氏の勢力下にあった。確たる城史ではないが、応永年間(1394-1426)には城主愛洲忠行が五代国司北畠政郷の子顕晴(田丸氏初代)を養子としたと言われ、玉丸御所と呼ばれたと言う。

 永禄十二年(1569)、北畠具教は織田信長との戦いの末に信長次男茶筅丸(信雄)を養嗣子とすることでその軍門に降った。四代田丸直昌も信雄に仕えることになり田丸城を織田方に明け渡して岩出城に移った。

 天正三年(1575)、信雄は北畠氏十代当主となり、田丸城を居城とする。信雄は田丸城に三層の天守を築き、外城田(ときだ)川を利用して堀を巡らすなど、大改修を施した。

 天正四年(1576)には三瀬の変(三瀬館)が起こり、北畠具教が殺された。田丸城にも長野具藤(具教の次男)や北畠親成ら北畠一門十三人が招かれて謀殺された。田丸直昌も北畠一族であったが、この変事で殺されることは無かった。

 天正八年(1580)火薬庫への放火により天守他主要部を焼失。信雄は田丸城の再建を断念して新たに松ヶ島城(松坂市)を築城して本拠地とした。

 天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦後、伊勢国は蒲生氏郷の領するところとなった。氏郷は松ヶ島城に入り、氏郷の妹婿であった田丸直昌が再び田丸城主に返り咲いた。

 天正十八年(1590)、氏郷は会津(若松城)に移封となり、直昌も田丸を離れた。その後、直昌は秀吉に仕え、慶長三年(1598)信濃海津城主(松代城)、次いで美濃岩村城主となった。慶長五年(1600)関ヶ原合戦時、去就に迷っていた直昌は西軍に付いたものと見なされ、岩村城を追われてしまった。その後、佐渡へ流罪となり、慶長十四年(1609)に越後で没した。

 関ヶ原合戦時、伊勢岩出城主二万五千石であった稲葉道通(みちとお)は隣国志摩の九鬼嘉隆と戦い、戦後二万石加増されて田丸城主となり、田丸藩が立藩された。

 元和二年(1616)、二代稲葉紀通は摂津中島四万五千七百石に移封となり、田丸は藤堂高虎の領するところとなった。

 元和五年(1619)徳川頼宣が紀州入りし、田丸領は紀州藩領となる。頼宣の御附家老久野宗成(元遠江久野城主)が一万石を拝領して田丸城代となり、田丸領六万石を宰領した。久野家の屋敷は和歌山城下にあり、田丸には一族名代を派遣して管理していたとされる。田丸城代久野氏はその後八代続いて明治に至った。


▲本丸天守台の石垣。訪城時にはライトアップ用に組まれた天守が建っていた。
 ▲本丸前の駐車場から見上げる。
▲本丸への登城口。帯曲輪の石垣と正面は本丸石垣である。

▲野面積の石垣。

▲田丸城の東面は総石垣で構築されている。。

▲北の丸東面の石垣。

▲北の丸西側には土塁が巡っている。

▲北の丸と本丸の間の空堀。

▲本丸虎口。

▲本丸と天守台。

▲本丸から西方を展望。

▲本丸と二の丸間の土橋。

▲本丸二の丸間の空堀。

▲二の丸富士見台。

▲城址東側の玉城中学校。かつての三の丸跡で、御殿が置かれた。

▲二の丸虎口。

▲富士見門。かつて三の丸から二の丸に向かう長屋門であった。

▲蓮池跡。

▲田丸城跡の説明板。
----備考----
訪問年月日 2015年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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