くのじょう
(くのじょう)

                   袋井市鷲巣           

久野城
▲ 城址を北側から望見。かつては茶畑となっていたが久野城址保存会の手によって復元された。

久野城騒動記

 久野氏の初代は太郎宗仲で源実朝に仕え、建暦三年(1213)五月の和田義盛の乱を破り、その恩賞として遠江久野庄を賜ったことにはじまる。次に史上に登場するのが三代清成で、足利尊氏と直義が車返(沼津市)で戦った際に尊氏側として参戦している。
 その後は今川氏に属し、同氏の遠江経営に積極的に協力していったものと思われる。文明七年(1475)春、今川義忠が横地、勝間田の両氏を攻めた際に久野佐渡守宗隆の名が今川方の武将として見えている(今川記)。
 この佐渡守宗隆は永正年間(1504〜1521)、今川氏親に従って遠江西部から三河へとその陣を進めている。そして久野の地に築城をはじめたのも宗隆であるとされている。
 さて、戦国の世も激動の度を加え、駿遠三の三国の太守となった今川義元も永禄三年(1560)、桶狭間に斃れ、このとき従軍していた宗隆の後を継いだ元宗も討死してしまった。
 その後、一族の浮沈という重責を背負って久野城主となったのが宗能である。
 今川氏真の代となってから同氏の力は急速に衰えを見せ、武田氏と徳川氏は国盗りの動きをあらわにするようになった。永禄十一年十二月、徳川家康はついに遠江へ進攻、一気に掛川城を囲んだ。掛川城には武田軍に駿府を追われた今川氏真が籠っていたのである。まさに今川氏最後の城となっていたのである。
 宗能は今川の恩に報いるために、久野城に籠って徳川軍を迎え撃った。
 掛川城を囲む家康にとって堅城である久野城へ兵と時間を割くことは得策ではなかった。家康は高力与左衛門清長を使者として宗能のもとへたてた。味方となるように説得するためである。
 今川の没落は誰の目にも明らかである。宗能は一族存立のために城内の異論を押えて家康に従う決意を固めた。
 この頃、武田軍も駿河から遠江へ兵を進めていた。秋山伯耆守信友の率いる軍で、久野城のすぐ近くにまで迫っていたのである。
 宗能は家康の命に従って出陣、この武田勢と戦ったが、対陣中に久野一族の者に武田方からしきりに誘いの手が伸びていた。
久野城址
▲ 二ノ丸から見た本丸跡。
 同時に掛川城の今川方からも内通の誘いがあり、久野城内は揺れた。今川氏真からは、家康を討ち取れば遠江一国を与えるとまで云ってきたのである。一族の久野弾正忠宗政は宗能に、掛川城の今川勢とともに家康を挟み討ちにすることを進言した。
 しかし宗能は宗政の進言を言下に却下し、久野佐渡守宗憲、久野八左衛門、本間五郎兵衛、同十右衛門兄弟らとともに家康への忠を明確にしたのであった。
 弾正忠宗政は宗能の弟淡路守宗益を立て、日向守宗成、弾正忠宗らとともに掛川城兵を久野城内に引き入れて宗能を討ち取ることを謀った。
 しかしこの謀計は事前に宗能らの知るところとなり、宗政らに先んじて家康の加勢を得て一挙に反乱者たちを鎮圧する行動に出た。
 十二月二十一日夜(史料によっては翌年一月二十日)、宗能からの通報を受けた家康は直ちに大久保忠世の一隊を久野城本丸に攻め込ませ、二ノ丸に居た宗能らとともに反乱を鎮圧したのであった。さらに城外には大須賀康高、松平家次、同家忠、水野忠重らが潜み、掛川城兵を待ち伏せして多くを討ち取った。
 その後、久野氏は家康に従って各地を転戦、家康の関東移封後は下総佐倉城に移った。久野城には豊臣系の松下之綱が主となったが、慶長八年(1603)宗能が再び久野城主となり、郷民に喜ばれたという。
 同十四年、宗能没して孫の宗成が継いだが元和五年(1619)には徳川頼宣の家老として紀州入りに従い、一万石で伊勢田丸城の城主となった。田丸藩は明治二年まで続いた。
 久野城には宗成の後、北条氏重が入り、氏重転封後は横須賀藩預かりとなって正保元年(1644)についに廃城となった。
北郭 ▲ 緑に被われた北郭。 本丸
 ▲ 本丸跡。桜が植樹され、花見の名所でもある。
----備考----
本文一部追加*2006/11
画像の撮影時期*2005/08