大河内城
(おかわちじょう)

:県指定史跡

            三重県松阪市大河内町       


▲大河内城は南北朝合一後、和約を反故にする幕府に憤慨した北畠満雅
が幕府軍との戦いに備えて築いたとされる。戦国期には北畠氏が織田信長
の大軍を迎え撃つために籠城、北畠氏最後の戦いが繰り広げられた。
(写真・大河内城本丸。)

北畠氏最後の籠城戦

 六十余年に及んだ南北朝の対立も明徳の和約(1393)で南北朝合一が成った。その後、合一の条件であった大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)による両統迭立が実質的に反故にされ続けてしまっていた。この事態に憤慨したのが南朝方で伊勢に勢力を保持していた伊勢国司三代北畠満雅であった。

 応永二十二年(1415)、満雅は阿坂城に反幕の兵を挙げることになるが、この際にここ大河内城を築城したとされる。阪内川と矢津川が合流する丘陵突端部に築かれたこの要害は満雅自らが縄張したとも伝えられている。満雅は城将として弟の顕雅をこの城に籠城させた。大河内城に於けるこの時の戦いの詳細は分らないが、満雅の籠る阿坂城同様に幕府軍を迎え撃って一歩も引かなかったものと思われる。結局、この時の戦いは後亀山法皇の仲介で和睦となった。

 正長元年(1428)、満雅は小倉宮親王(大覚寺統)を奉じて再び挙兵した(正長の変)。しかし、幕軍の激しい討伐戦によって阿濃郡岩田川の戦いで壮烈な討死を遂げてしまう。

 満雅討死後、遺児教具はまだ七歳であったため大河内城主顕雅が当主代行として奔走、六代将軍足利義教との和睦を実現した。

 その後、大河内城の顕雅の子孫は大河内氏を称し、大河内御所と呼ばれた。大河内御所は北畠三御所(田丸御所/田丸城、坂内御所/坂内城)の筆頭とされ、国司家北畠氏に次ぐ地位にあり続けた。

 大河内氏五代具良の時代、永禄十二年(1569)八月、織田信長による伊勢攻略に対抗して八代国司北畠具教は嫡子具房と共に本拠地多気(霧山城)から前進してここ大河内城に陣取った。南勢、志摩、伊賀、大和、熊野の兵合わせて一万が大河内城に籠り、織田勢との対戦に備えた。城主であった大河内具良は伊勢湾岸大淀城(現・明和町)に移り、合戦に備えることになった。

 伊勢の諸城を落としつつ木造城に達した織田勢五万は北畠領を進撃して大河内城へ殺到した。信長は大河内城の東2kmの桂瀬山を本陣とし、城下を焼き払った。八月二十九日早暁、池田信輝、浅井長政らに総攻撃をかけさせ、南北朝以来の名族北畠氏との決戦が開始された。しかし、北畠勢の抵抗は頑強で、織田勢との戦闘は一進一退が続いた。

 籠城一ヶ月、九月下旬になると城内の兵糧も枯渇して餓死者をみるに至る。具教は和睦の交渉を申し出、籠城を断念することを決した。

 十月三日、信長次男茶筅丸を具房の養嗣子とすることを受け入れ、大河内城を明け渡して退去した。

 一方、大河内具良の籠城した大淀城は織田水軍を率いる九鬼嘉隆の攻撃を受けて落城してしまった。

 天正三年(1575)、茶筅丸は元服して信意(後に信雄)と名乗り、北畠氏十代当主となった。信意は本拠を田丸城に移し、大河内城は廃城となった。

 そして翌天正四年(1576)、信長の意により三瀬館に隠退していた北畠具教が刺客に襲われ討取られた。同時に田丸城に於いても北畠一族が呼び集められて全員が謀殺され、ここに北畠氏は滅亡となった。六代大河内教通も田丸城に病気療養滞在中であったところを襲われて殺害された。


▲本丸跡に建てられた「大河内合戦四百年記念碑」。
 ▲国道166号沿いの駐車場から大河内城を見る。
▲駐車場に立つ説明板。

▲駐車場から城山へ向かうと西蓮寺の石垣に突き当たり、右へ行く。

▲大河内城跡の案内板が立っている。登城口である。

▲案内板付近から見上げる城山。

▲搦手門跡の標柱が立つ。

▲二の丸。

▲表忠碑等の石碑が並ぶ二の丸跡。

▲二の丸の北側の平坦地は馬場跡と呼ばれている。

▲馬場跡の標柱。

▲二の丸から本丸への登り口には御納戸跡の標柱が立っていた。

▲本丸。現在は大河内神社の境内地となっている。

▲本丸跡。

▲本丸跡の標柱。

▲本丸跡に立つ説明板。
----備考----
訪問年月日 2015年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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