木造城
(こつくりじょう)

            三重県津市木造町         


▲木造城は伊勢国司北畠氏領域の最北端に位置する木造氏の居城である。しかし、北畠氏
との関係は良好なものではなく、木造氏は織田信長に従って北畠氏攻略の先駆けとなった。
(写真・城址碑の建つ残欠土塁と見られる土盛り。)

往時ここに城あり

 伊勢国司となって南伊勢に勢力を張った北畠氏であったが、その領域の最北最前線に築かれた城が木造城である。
 創築は貞治五年(1366)、初代国司北畠顕能の三男顕俊による。顕俊は木造氏を称し、後に大河内氏、坂内氏とともに北畠三家と呼ばれた。
 応永二十二年(1415)、三代俊康の時、本家北畠満雅が反幕府の挙兵をした際に木造城を攻め落とされている。俊康が本家に叛いて幕府方に付いたためであった。将軍足利持義は俊康を支援して土岐持益ら数万の大軍を伊勢に派遣、木造城を攻囲した。俊康追放後に木造城に入ったのは波瀬城主北畠雅敏で、二千の兵が守っていたが、長井良右衛門や松田小太郎といった内通者によって幕府方は城内に突入、奪還に成功した。北畠雅敏は波瀬城に逃げ戻り、俊康は木造城に復帰した。
 享禄元年(1528)、七代俊茂はより堅固な城を築こうと300mほど北側の湿地帯に新築した。この城が現在の城址碑の建つところである。
 永禄十二年(1569)五月、織田信長の伊勢攻略の先鋒滝川一益は木造家臣源浄院(滝川雄利)と柘植三郎左衛門保重を抱き込んで彼らの主人木造具政を織田方に寝返らせることに成功した。具政は北畠家当主具教の実弟で、木造家の養子となって家督を継いでいたのであるが、どうも兄弟仲が良くなかったようである。具政は源浄院や柘植らの説得に応じて織田方に付いてしまったのである。
 これに対して北畠具教は出兵して雲出川原にて一戦に及び木造城を包囲した。しかし城は容易に落ちず、八月になると織田信長率いる十万の大軍が中伊勢に進撃してきたため、北畠勢は兵を退いて大河内城に籠った。信長を木造城に迎えた具政は織田勢の先鋒となって大河内城攻めの先駆けとなって奮戦した。
 十月、北畠具教は織田信雄を養子とすることを認めて信長に降伏した。具政、具康(長正)父子は信雄の臣下となり、具政は木造城の北西6kmの戸木に城を築いて戸木御所と呼ばれた。

 天正十二年(1584)になると羽柴秀吉の命で蒲生氏郷が南伊勢十二万石を与えられて松ヶ島城に入城した。しかし、具康は氏郷への臣従を拒み木造城で戦闘準備についたのである。氏郷は軍勢を発して木造城を囲んだ。
 木造城側では積極果敢に蒲生勢に打ち掛かり、家臣中川庄蔵らは一時氏郷のそば近くまで肉薄して奮戦、討死したと伝えられている。この戦いで大塚弥三郎、畑作兵衛尉、天花寺勘太郎、畑角兵衛尉といった名ある家臣が討死したと言われ、木造方の激しい抗戦が展開されたようである。
 しかし、孤軍奮闘にも限界がある。具康は城を明け渡して尾張へ落ち延びた。木造城の歴史はこの時点で幕を閉じたようだ。
 その後、具康は織田秀信(幼名三法師)に仕えて二万五千石を食み、田辺城(いなべ市)を居城とした。関ヶ原時(1600)、具康は岐阜城で秀信に東軍に付くように進言したが容れられなかった。戦後、具康は福島正則に見出されて一万九千石の家臣となったが、数代で断絶した。ちなみに具政の弟の子孫が五百石の旗本として存続したと言われる。


▲城址碑と由緒碑。「往時ここに城あり…」ではじまる碑文は私たちを一気に歴史の彼方に引き込んでくれる。
▲城址といっても田畑の中に土盛りが残り、城址碑が建つのみである。
▲土盛りは土塁の残欠とも見られており、その頂部に城址碑が建っている。

▲城址碑前の由緒碑。

▲城址は津市の指定史跡となっている。市の説明板。

▲土盛りの裏側(北)。

▲城址の東側の風景。一面の畑地であり、かつて城は沼地に囲まれた要害であったという。
----備考----
訪問年月日 2014年11月15日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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