(いいもりじょう)
▲ 飯盛城は平安末期に当地に土着した足助氏の城跡と言われている。足助氏は
後醍醐天皇の挙兵に応じて笠置山に馳せ参じ、北条幕府軍を相手に奮戦した。
(写真・三ノ曲輪から山頂の主曲輪を見る。)
南党足助氏の古城
平安末期平家全盛の頃、足助の荘官職を継いで土着、足助氏を名乗ったのが尾張源氏浦野太郎重直の六男重長であった。重長ははじめ黍生に城館(黍生城)を構えた。 |
足助に伝わる南朝伝説のひとつに後醍醐天皇の第三皇子平勝親王が元弘の乱当時に権中納言二条良基を伴って足助に来て戦勝祈願を行ったというものがある。二条良基は実在の公家であるが平勝親王というのは誰を指すのかよく分らない。ともあれ、平勝親王は父帝が京都に帰ったことを知ると足助を去り、京に戻ったと言われる。 |
▲ 足助鈴木氏の真弓山城(足助城)から見た飯盛城。 |
現在、飯盛山に登ると山頂の主郭、一段下がった両側にニノ曲輪と三ノ曲輪の跡が削平された形で残っている。飯盛城は足助氏が去った後に廃城となったとも言われるが、戦国期に当地を支配した鈴木氏によっても利用された可能性があると思われる。 |
▲飯盛山西側の登山口。国道153号香嵐渓交差点南側の西町第2駐車場からすぐの所である。 | ▲登山道を登り始めるとすぐに「太子堂」が建っている。 |
▲登山道の周囲は「かたくり」の群生地となっている。 |
▲登山道を登りきるとまず三ノ曲輪に出る。 |
▲三ノ曲輪からさらに登ると主曲輪である。 |
▲主曲輪を挟んで三ノ曲輪の反対側は二ノ曲輪である。 |
▲主曲輪から一旦引き返して香積寺方面に下ると足助重範の娘滝野が二条良基の装束を埋めたという装束塚がある。ここには足助重範、滝野、成瀬基久、同基直の墓塔が建っている。 |
▲装束塚から少し下ると足助鈴木氏五代の墓が並んでいる。 |
▲足助氏の居館跡に創建された香積寺。 |
▲香積寺の山門と参道。 |
▲山門を出ると参道の両側に大土塁が迫るように残っている。 |
▲飯盛山の南側と西側を湾曲して流れる巴川。紅葉の季節には多くの観光客で賑わう香嵐渓である。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2013年7月20日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |