真弓山城
(まゆみやまじょう)

                 豊田市足助町須沢         地図


▲ 真弓山城は城跡公園・足助城として曲輪や建物などが復元整備され、戦国期山城の様相を
再現している。発掘調査により、戦国期に足助鈴木氏が本拠とした城跡であると見られている。
(写真・本丸に復元された高櫓と長屋。)

足助鈴木氏を支えた山城

 一般的に足助城というとこの真弓山の城のことを指している。
 当初、この真弓山に城砦を築いたのは鎌倉時代から南北朝時代にかけて飯盛山(飯盛城)を居城とした足助氏であったようだ。しかし、平成2年(1990)から平成4年(1992)にかけて実施された発掘調査ではこの時期の遺物は発見されず、15世紀以降のものであったことが確認されている。つまり真弓山城は足助氏が去った後の15世紀後半にこの地域へ進出して来た鈴木氏によって築かれた城なのである。
 真弓山城を築いた鈴木氏は足助鈴木氏と呼ばれ、文治五年(1189)に矢並(豊田市)に土着して三河鈴木氏の祖となった鈴木重善の一流で西三河山間部に勢力を張った寺部鈴木氏、酒呑鈴木氏、則定鈴木氏と同族である。
 足助鈴木氏の初代忠親が足助を一所懸命の地とすべくやって来たのが15世紀後半であったとされる。当然のことながら忠親は南朝の忠臣として名を残した足助氏の古城(飯盛城)跡へ足を運んだはずである。しかし、山麓の居館跡には足助氏の菩提を弔う香積寺が建立され、飯盛山は村人たちが足助氏を偲ぶ大切な場所となっていたのではないだろうか。それに山上に建物を設けるには手狭でもあった。戦が日常的な時代であるから城には兵を常駐させなくてはならない。さらには城主自らが山上に居館を建てて生活の場とすることも考えなければならないのだ。そこで忠親が目を付けたのが足助氏も城砦を設けていたという真弓山であったのであろう。
 大永五年(1525)、三河の風雲児松平清康(岡崎城主)が二千余騎を率いて足助に押し寄せた。この時の城主は二代鈴木雅樂守重政であった。重政は清康に臣従することとなり、清康の妹を嫡男重直の妻に迎えた。
 天文四年(1535)、尾張守山城の陣中で松平清康が家臣に斬られて落命、三河勢は一斉に尾張から退却した。「守山崩れ」である。三代越後守重直は清康の死を機に松平氏との主従関係を断ち切ろうと考え、妻久子を離縁して岡崎へ返している。
 天文二十三年(1554)、甲相駿三国同盟で後顧の憂いを無くした今川氏による三河平定は一気に加速し、ここ足助の地にも今川の軍勢がやって来た。今川方の馬場幸家、堀越義久ら三千五百余騎の軍勢であった。時勢には逆らえず、重直は今川方に降った。
 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間合戦に敗死すると三河は岡崎に自立した松平元康によって平定されて行く事になる。
 ここ足助に松平家康(元康改名)が三千余騎を率いてやって来たのは永禄七年(1564)であった。重直は嫡子信重を人質に差し出して降伏した。

 大軍に囲まれる度に鈴木氏は降伏を繰り返しながら存続を図ってきているが、その背景には堅城と化した真弓山城の存在があったからではないだろうか。攻める側にとっても無理攻めを避け、無為に血を流すことなく相手が降ってくれればそれに越したことはないのである。
 その後、足助鈴木氏は徳川(松平改め)家臣団に組み込まれ、姉川合戦などに従軍している。
 元亀二年(1571)、甲斐の武田信玄が動き出した。二万三千の大軍を率いて伊那口より三河に進攻、諸城を落としながら足助に迫った。しかし重直の心は決まっていた。反復離反は戦国の常とはいえここにきて幾多の戦陣で生死を共にしてきた家康を裏切る気になれなかったのであろう。重直は一族を引き連れて城を脱し、一旦広瀬(豊田市)の郷に逃れて岡崎に向かった。
 元亀四年(1573)春、武田信玄は遠江三方原合戦で家康を一蹴した後に東三河野田城を落とした。ところがその後武田勢は帰国してしまい信玄の死が確実視されたのである。


▲公園入口から歩いて行くとまずこの光景を目にする。角ばった法面の上は南の丸である。

 この年、浜松城の家康は直ちに失地回復の行動を起こし、岡崎城の嫡子信康に足助の奪回を命じたのである。
 真弓山城には武田方の下条伊豆守信氏らが城代となってわずかな兵が駐屯していた。信康は三千の兵で押し寄せて城を奪回した。当然、鈴木重直らも陣に加わっていたはずである。
 奪回後、足助は鈴木氏に与えられ、真弓山城には重直嫡男の信重が入ったものと思われる。その後、徳川勢の一員として足助鈴木氏も各地の戦陣を駆けたものと思われ、天正九年(1581)遠江高天神城の戦いでは信重ら鈴木勢が首138級を取る戦功を挙げている。
 天正十八年(1590)の家康関東移封の際には足助鈴木氏もこれに伴って足助の地を離れ、真弓山城は廃城となったと言われる。五代当主鈴木康重は関東移住後、致仕して浪人となった。待遇に不満があったからとも言われるが定かではない。

 ▲城跡公園・足助城の駐車場。
▲順路に沿って行くと南の丸腰曲輪を経、この坂を登って西の丸に至る。建物は西物見台である。

▲細長の西の丸。

▲南の丸の復元された建物。

▲南物見台。

▲本丸高櫓と長屋(手前)。

▲高櫓からのながめ。

▲真弓山城墟碑。当初、足助氏の本城は真弓山と思われており、笠置山に馳せ参じた足助氏を称えたこの碑が本丸に建てられていた。現在は公園入口近くに移されている。

▲公園入口に掲示されていた鳥瞰図。
----備考----
訪問年月日 2013年7月20日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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