柳生古城
(やぎゅうこじょう)

            奈良県奈良市柳生下町         


▲柳生古城は柳生の里北側の古城山の尾根上に築かれた山城である。伝承によれば
元弘の乱(1331)の折に柳生永珍が宮方に参じてここに陣取ったと言われている。
(写真・主郭北端の土塁跡と剣塚の碑。)

宮方に応じた柳生氏の山砦

 柳生といえば剣豪柳生石舟斎や徳川将軍家指南役となった但馬守宗矩あるいはその子十兵衛の名がすぐに思い浮かぶのは私だけではあるまい。しかし、それ以前の柳生氏の事となると、あまり知られて無いのではないだろうか。たしかに柳生氏の姿が具体的に見えてくるのは石舟斎が生まれた大永の頃(1521-28)からである。いわゆる戦国時代になってからである。それ以前の柳生氏の事績についてはほとんど伝えられていない。しかし、ただ一度だけ歴史の舞台に名を上げたことがあった。

 元弘元年(1331)八月、後醍醐天皇が京都を脱して笠置山に還幸され、倒幕の兵を挙げた。すなわち鎌倉幕府滅亡に至る元弘の乱のはじまりである。この挙兵に応じて馳せ参じた武士の中に柳生播磨守永珍(ながはる/ながよし)がいたのである。石舟斎の七代前の当主である。実は永珍の弟中坊源専(なかのぼうげんせん)が笠置山笠置寺の僧であったのである。永珍は弟源専の報せで笠置山が戦の準備に追われ、諸門の防備が固められ、矢倉が建てられるなどして城砦化が進められていることを知った(笠置城)。永珍がどのような思いで天皇の召しに応じたのかは今となっては分らない。ともかく、永珍は兵粮を運び込むなどして積極的に笠置山の宮方に協力したのである。

 柳生郷は笠置山の南わずか2.5kmほどの距離で、一本の街道で繋がっていた。笠置山の天皇も永珍の協力を頼もしく思われたに違いない。源専も宮方として活躍している。楠木正成を天皇に紹介したのも源専であったと言われる。

 それまで静かな山里であった柳生の地もこの時ばかりは里全体が沸き返ったことであろう。永珍は里の北端に位置し、笠置への街道を扼するこの山を城砦化して陣を置いた。笠置山への糧道を確保するためであったことは言うまでもあるまい。

 笠置山における幕府の大軍との戦いは宮方の善戦が伝えられたが、対峙ひと月になろうとする頃、幕府方の突入によってあえなく落城してしまった。天皇は山中に逃れたが、捕えられて隠岐へ流されてしまった。

 当然、永珍の陣するこの山砦にも幕府方の軍勢が押し寄せたであろうが、その時の様子は伝えられていないようだ。笠置落城後、鎌倉幕府によって柳生氏は所領を没収されたことが伝えられているだけである。

 しかし二年後、鎌倉幕府は滅んで後醍醐天皇による建武の新政(1333)が成った。柳生郷は中坊源専に与えられ、源専は兄永珍にその所領を譲ったとされる。

 その後柳生氏は家重、通永、家宗、光家、重永、家厳と続いて石舟斎宗厳に至るのである。

 現在、永珍の陣したという山砦跡を古城山と呼んでいる。山上を訪れると削平された主郭と土塁跡があり南北尾根上に曲輪と堀切の跡が見て取れる。ただ、この遺構が永珍当時のものとは思えない。永珍以後も柳生氏によって有事の城として維持され、戦国期に至ったものと思われる。


▲柳生古城の主郭部分。
 ▲県道4号線の「柳生」バス停のところに鉄製の階段がある。ここが登山口・登城口となる。
▲尾根道をしばらく登ると左側に最初の堀切跡が現れる。

▲最初の堀切跡。この堀切は登山路の反対側でL字形に折れている。

▲二つ目の堀切跡。主郭南側の堀切である。

▲主郭南側には一段下がった曲輪が設けられている。

▲城跡のある古城山。
----備考----
訪問年月日 2014年5月3日
主要参考資料 「別冊歴史読本・柳生一族」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ