長久手城
(ながくてじょう)

            愛知県長久手市城屋敷         


▲長久手城は岩崎城主丹羽氏と縁戚になった加藤氏の居城であった。
城は長久手合戦の戦場となり、焼失、廃城となったものと思われる。
(写真・字城屋敷の観音堂脇に建つ城址碑。)

古戦場の城跡

 天正十二年(1584)四月九日早朝、長久手合戦の前哨戦となった岩崎城の戦は池田恒興、森長可隊の攻撃を受けて城兵のことごとくが討死して落城してしまった。この時、城代の丹羽氏重(十六歳)を補佐して奮戦討死した加藤太郎右衛門忠景の居城がここ長久手城であったのだ。岩崎城主丹羽氏次は徳川家康の小牧の陣に参陣して城を留守にしていたため弟の氏重が城代をつとめ、城の守りを固めていたのであった。
 加藤忠景は岩崎城主丹羽氏次の姉を娶っており、また娘を氏次の継室に嫁がせていた。したがって忠景は氏次の義兄であり舅ということになる。ちなみに氏次の後を継いだ氏信は忠景の娘の産んだ子で、後に美濃岩村藩二万石の大名となる。
 加藤氏が長久手城に居住するようになったのは弘治(1555-58)の頃と言われている。それまでは瀬戸の馬ヶ城(瀬戸市)の土豪であったとされ、落去して長久手に来住したと言われている。長久手に来た加藤氏はかつての斎藤氏の城跡に入り、堀や土塁を増改築して居城としたのである。前主斎藤氏については享禄年間(1528-32)に斎藤平左衛門尉、同民部丞の名が伝えられている。さらに永享年間(1429-41)には左近太郎家忠と左衛門次郎国守(姓不詳)の名が伝えられている。
 長久手合戦時、城の付近は合戦場となり徳川・織田、羽柴双方の軍勢が激突して死闘を展開した所である。城はこの時に焼失、後に廃されたものと思われる。
 城は東西二つの曲輪から成っており、現在の観音堂のある辺りは東城(東ノ曲輪)と呼ばれている。二つの曲輪とも現在では宅地化が進み、遺構は消滅して見る影もなくなってしまった。観音堂の脇に城址碑と文化六年(1809)に子孫の尾張藩士加藤氏による石標が建つのみである。

 ▲長久手市城屋敷の観音堂。御堂の東(右)側に城址碑が建っている。
▲江戸時代の文化6年(1809)11月に尾張藩士加藤氏によって建てられた「加藤太郎右衛門忠景宅址」の石標。

▲観音堂前の広場に立つ説明板。
----備考----
訪問年月日 2014年3月15日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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